2005年2月1日(火曜日)
古い友人の菊波君が逝ってしまった。

私の古い友人菊波君が、2005年1月30日13時半永眠した。
彼は中広中学校の同期会で役員をしてくれ、5年に一度の同期会の司会を努めてくれた。
昨年の5月に還暦同期会を開催するので、「車椅子で出席して、30分でも司会してくれ」と頼んだのだ。
全身に癌が広がっていて、特に骨は痛いらしく、「1時間も座っていられない!」と断られてしまった。
2003年12月の仲間の忘年会には出席してくれ、大いに歌い、飲んだものなのに・・・・。
死ぬのは寿命だ!と訳のわからん事を言いながら、
肺がんを患っているのに、死ぬまでタバコを手放さなかったなぁ〜。

菊波は龍谷大学を卒業後、3年間広島トヨタにお世話になり、独立してゴルフ屋を始めた。
20数年続けたゴルフ屋もバブルもあおりを受け、店をたたんでしまった。
龍谷大学を出ており、大分の縁者の薦めも有って、仏門に入る事を決心し、西本願寺で得度した。
得度式を済ませ、広島へ帰る電車の中で、一人のおばあさんが菊波に向って合掌してくれたらしい。
「オレの坊主頭と墨染めの衣に手を合わせてくれたのだろう。」と正直に白状した。
「あたりまえだ!娑婆っ気の多いお前が皆さんから手を合わせてもらえるには
何十年もかかろうで〜」とお互い笑ったものだった。
しかし、人様から手を合わせてもらって、菊波の宗教者としての己への真剣な
間い掛けが始まったように思う。

私は無神論のほうで、死後の世の中など信じてはいない。
しかし親は浄土真宗の門徒なので、当然お葬式も浄土真宗のお坊さんに来てもらった。
来てもらった西善寺の先代が気骨のある人で、私はいっぺんに好きになった。
葬儀の日取りを決めるのに、日曜日が参列下さる人達が都合良いと思っていた。
親戚の年寄りの伯母が「友引だから絶対にダメ!」と言い張る。
「別にお前さんをおやじがあの世に引っ張って行きゃあせんよ!!」
と腹わた煮え繰り返っていた。
親戚にそっぽを向かれたのではやりにくいし、西善寺さんに相談したらこっぴどくしかられた。
仏滅、友引、大安などは迷信で仏教とは一切関係有りません!!・・・と。
飯茶碗に箸を立てたり、刃物を胸元に添えたりする事もやめなさいと注意を受ける。
その後の法事でも”清めの塩”についてもお話があった。
今は葬儀屋も配らなくなったが・・・・
凡人の死に対する恐怖から発生する行為であるが迷信に惑わされる事無く、
”死とは何んぞや”を説く良いきっかけとばかり、西善寺さんは話してくれた。

私はおねだり宗教や、葬式宗教には虫唾が走る思いでいる。
人の弱みに付け込んで、加持祈祷して金を巻き上げ、身内が亡くなって悲嘆に暮れている時に
さっさと大金を出させて、良しとする宗教者面している者に怒りで身体が震えるのである。

私は信者ではないが、正直な親鸞さんが大好きなのだ。
自力本願では、とても自分すら救えないと悟り、当時破壊坊主のそしりをものともせず妻帯し、
大飢饉に会っている人達の為100萬辺の称名を途中でやめ
息子を離縁するなど、本当に自分に正直な生き方をした人と思う。
その人間的天才が、今夕の食べ物にも困り、明日をも知れぬ生命尽き掛けた人に
”安心して生きなさい”と、どの様に諭したのであろうか?
そんな話を菊波と会う度にぶっつけた。
「同級生を救える坊主になったら、真の宗教者だろうなぁ〜」といやがらせを
言ったものだった。

広島に帰って来てからは、寺町の善正寺さんに縁あってお世話になる事が出来た。
月忌参りも任せてもらえるようになり、門徒さんとの繋がりも拡がっていった。
どの様な宗教者になるか、永遠の課題をずっと摸索していたのだろう。
不信心の私が寺社批判をしても仕方ないのだが、親しい友人が仏門に入ったので、
目一杯遠慮なく意見をいったものだ。
何故日本の寺社は世襲なのか?堕落の一番の原因なのでは?
キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、教会の坊さんは教団から派遣されていて、
信者さんを集められない坊主は即刻飛ばされるはずだ。
日本の寺社宗教者が真の宗教者たらんとする姿勢が見えないのは、世襲制度だと思う。
魂を救って欲しい人々は、現代にも沢山いるのに、手を差し伸べられないでいる。
掲示板に案内を貼り出して事足れリとしているところがある。
だから、真に救いを求めている人々を訳の分からない新興宗教に走らせてしまうのだ。
別に菊波のせいでもないのに、不信心の私が攻め立てたのである。

教義の深淵はわからないが、苦しんでいる人々を「大丈夫だ!!安心して生きて行けるよ!」と
諭してくれるのが坊主の役割と思っている。・・・・と、得度して2〜3年の菊波を攻め立てたものである。
私から教えを乞う機会が無かったので彼の説法を聞く事はなかったが、その後の癌との戦いで
見事に生き方を示してくれたと思う。
10数回もの癌の手術にも耐え、退院してすぐに門徒さんの所を巡り歩いた。
ホスピスに入る数ヶ月前まで門徒さん廻りをしていた。
昨年の7月には、一切の治療をやめ、ホスピスに入った。
そして1月18日からは栄養剤の点滴も拒否してしまった。
立派な生き様(死に様)としか言い様が無い。

菊波の思いを色々想像出来るが、それを書き表せば、何だか嘘っぽく
なるのでこれ以上書けない。

奥さんから帳場の方、宜しく御願いしますと頼まれた。
同期会の役員で31会というものを結成していて、31のつく月に飲もうと始まった会である。
最近は年に2〜3回となったが、10名ばかりでずっと続いている。
互いの病気見舞いや、親の葬儀の時は助け合っている。
葬儀の帳場を預るとその家の事があからさまになる。
町内会にも知られるのも癪なので、(後日うわさにも花が咲く)気心の知れた友人で帳場を預る方が
余程気が休まるのである。
そんな訳で、我々は頂いた皆さんの住所も中身もきっちり確認させて頂き、
金額もきっちり合わせる。
出棺までには決算が済んでいるのである。いつも町内会の人にびっくりしてもらう。
しかし、最近は男性軍の半分が病気になってしまい、今回は人手が足らないとみて、
女性軍にもお手伝いを御願いしたら、8名も参集してくれた。感謝!!感謝!!

通夜の席で友人の小泉が「友人代表の弔辞を読め!!」と迫るので、その夜頑張って考えてみた。
本に出ている様な美辞麗句の弔辞ではなく、自分の思いをぶっつけたものになった。
嫁さんに半紙に筆で清書してもらい、和紙で封筒も作ってもらった。
当日、儀式の始めのほうで弔辞を述べる様になっている。寺町の寺の代表も10名ばかり参列している。
若干坊主批判も含まれているので、緊張した。

いざ読み上げようと2行目を読み始めたとたん、涙がボロボロ落ち始めた。
声が詰まったので深呼吸する。
弔辞で言いたい事は菊波の為にもしっかり伝えたい。
泣く予定でなかったので、ハンカチを持って来ていない。
涙だけなら良いが鼻水もたらたら流れ出る。
仕方ないので、右手でこすり上げながらながら読み続ける。
とうとう最後まで涙は止まらなかった。
席に付いても、ずっと涙が止まらない。嫁さんの作ってくれた和紙の封簡を思い出し
ポケットから出してハンカチ代わりとする。

葬儀が終わって、仏教婦人会にも参加している同級生の田中さんが、
泣きながら同級生に弔辞が良かったと言ってくれたらしい。
一番うれしかったのは、菊波の奥さんから、「菊波の言いたい事を全部言って下さった!!」と
感激された事だった。
弔辞は、そうっとお棺に忍ばせた。

以下はその弔辞。   合 掌!!



”菊波君!!
還暦を迎え、仕事以外の人生を楽しむはずだったのに、
君はかっこよく早々と逝ってしまった。
バブルがはじけ、さっさとゴルフ屋をたたんで、仏門に入った君は、
”不思議な縁だ!”と良く言っていた。
京都の龍谷大学に学び、九州の縁者の口利きもあり、西本願寺で得度し、仏門に入る事が出来た。
そして、縁あって善正寺さんにお世話になり、門徒さんとの繋がりも沢山出来た。
本当に縁あって生かされていると思うとつくづく言っていたね。

12年前に大腸癌にかかってからは、一期一会の気持ちは更に強くなって行った様だった。
「月忌参りで一生懸命お努めすれば門徒さんは良く分かって下さる。
時間が無くて、廻りきれなくなる事もあるが、御指名がかかる事もある」とうれしそうに笑っていたね。
二度目の入院の時、生きていくのが辛くてフラフラと病院のベランダの手摺に足をかけたと言ったね。
思わす俺は、「小児癌の子供達は『お母さん、死ぬの恐いよう!』と言いながらも、
必死で生きようとする!子供に負けるな!・・・・と、訳の分からん励ましをしたものだった。

その後は、10回以上も入退院を繰り返した。
君は自分の生命を掌に載せ、コロコロ転がして見ている風があった。
どの様に生きるべきか、死ぬべきかは君にとって完全に同意語になっていた様に思う。
君の生き様を家族に見せ、門徒さんに見せ、私達に見せてくれ
究極の布教活動をしていた様に思えてならない。
昨年の夏には、一切の治療をやめ、ホスピスに入り、そして先月の中旬からは一切の栄養剤の
点滴をも断り、安らかに永眠してしまった。
自分の生命を自由自在に操った生き様は、湯殿山の求道者を思わせるものがある・・・

決して君の60年間は短くなかったと思うよ。
ありがとう!菊ちゃん!!   さようなら・・・        友人代表   稲垣  武