2004年リタイヤメント生活に突入だ!
もうすぐクロカンシーズンだなぁ〜

2006年 6 月   
6月3日(土曜日)
5月の土日は何だか飛べない日が多く、飛べてもぶっ飛びだけだったのもので、
何だかフライト日誌を書きそびれてしまった。
平日にも飛んだが、平日に飛んだ!飛んだ!と書くのも気が引けて、書く気にもならない。
(実際、たいしたフライトは無かったのでもあるが・・・)
仕事をリタイヤして毎日でも飛べる状態になったのであるが、
実際平日にも5〜6回飛びに行ったが、さほどうれしさを感じない。
土日しか飛べなかった頃の方が、フライト1本、1本に込める気持ちが違ったし、
平日で実際良いフライトであっても、うれしさが込み上げてこない。
この事はリタイヤする前から分かっていたので、平日飛びは出来るだけやらないぞ!!と決心していたのであるが、
5月にあまり飛べなかったのと相まって、平日友の会の呼びかけにホイホイと乗っかっている状態である。
不遜というか我が侭な言ようであるが、自由な身になって初めて不自由さを恋しがるというか、
不自由だからこそ自由への喜びがある事を実感している今日この頃である。
(不自由な環境に身を置く皆さんからの怨嗟の声が聞こえる気がするが・・・)

私の海外指向はひょっとして、この不自由さを求めての事でないか?と
自分のへそ曲がりさにぞっとしている部分もある。
私の右脳は機能していないのではないか?という位語学については働かない。
幸い嫁さんは語学は好きな方なので、海外生活はなんとかなるかな?と思っている。
嫁さんは出不精ではなく、出べそなので、どこへでも行くつもりでいる。
私も70才位まで一応体力がある年までは海外で生活(ロングステイ)してみたいと思っている。
私の老後の生きる張り合いは役に立つ老人で居たいちいう願いである。
そんなわけで、晴耕(晴パラ)雨読(雨の日は現地の子供を集めて日本語教室)の老後生活を夢見ているのだが・・・・。
70才過ぎて体力なくなったら、留学生のホストファミリーを努めるのもいいなぁ〜と思っている。

JICAのシニアプログラムで、日本語教師を求めているので、それに乗っかかるのもいいかなぁ〜と思っている。
ちなみに嫁さんは60万円かけて一年間日本語教師の学校に行ったのである。元をとらんとなぁ・・・・。
JICAは家族同伴も認めているので、私が同伴家族で行くのである。
春の説明会では、トルコが面白いかな?と思ったが嫁さんスペイン語も使いたいので、秋の説明会を聞くことにした。
秋のは現地の日本人会が招請するプログラムで、南米が多いのである。
これでフライトエリアがあれば、晴パラ雨語(日本語)になるのだが・・・。
とにかく今年一年は準備期間として、研究してみようと思う。皆さん何か情報があればお教え下さい。

ちなみに7月15日から、一ヶ月ばかりスペインに行く事にした。
川地さんのパラスペインツアーに同行して、その後20日ばかりスペインに残って旅行してみようと思う。
どんなスペイン滞在になる事やら・・・。
ゆったりとスペインを感じてみたいので、セコセコ観光地巡りは避けたいと思っている。

スペイン北部が良いかな?と思っていると、どうも北部はオンシーズンで、
夏のバケーションでスペイン国内外から人が集まって来るようである。
暑いが海岸部を避けた南部に行ってみようかと思っている。
行き当たりばったりの旅行で、現地の人たちと触れ合える機会があるのを楽しみにしている。
首絞め強盗などには会わないように祈るだけである。
パラツアーと分かれて一週間ばかりマドリッドに居を構え(一泊3000円)日帰りで近郊を探索してみようと思う。
勿論マドリッド市内も宿泊は日西文化協会が運営する施設で日本人が対応してくれる。
様々な相談に乗ってくれるのが心強い。
どんな旅行になるやら・・・。


ところで6月3日(土)のフライト。
北西の予報で本流は北西であるが、日照があるので、荒谷山は東がらみ{正面)でテイクオフに入っている。
藁科号で荒谷山に上がる。
正面ぽく入っているが、パワーはない。とりあえずテイクオフしたが、やはりぶっ飛びであった。
もう一度荒谷山へ上がると、ハングが2機+1000m位上げて行った。
井口さんもテイクオフし、+500mは上げ、小一時間遊んでトップランした。
その間無風やフォローで誰もテイクオフ出来ず。
神の倉ではトップアウトする機体がちらほら見える。
神の倉に移動する。
2時半頃機体を拡げて立ち上げして様子を見ていると、パワーのあるブローが入って来たので、すぐにテイクオフした。
右尾根でコネコネしてトップアウト。
南の鞍部に強いサーマルがあり、+600mあがった。
誰もテイクオフして来ないので、私1人が小一時間遊んだ。
私がテイクオフしてすぐにフォローに変わったらしい。
夕方にも1本フライトしたが、ぶっ飛び状態。
春のパワーは無くなってしまったようだ。
6月10日(土曜日)川地塾
今週の予報は入梅で雨であったが、何とか晴れとなった。
10日、11日と川地塾である。

背中の脂肪の固まりが大きくなり6月8日に手術してもらった。
切除して見せてもらったら直径2cm弱あった。
30数年前から小さいのがあって、脂を絞っていたのだが3〜4年前から絞っても
脂は出なくなり、だんだん大きくなって来ていた。
切除する時、パチンパチンと大きな音をさせてハサミで切っていた。
脂の袋の周囲が硬くなっていて、簡単に取り出せなかった様だ。
私の主治医の紹介状で、岡山形成外科で手術してもらった。整形外科でなく、形成外科である。
女性の顔なども手術するところで相当丹念な縫合をするのだろう。
私の背中なので、×印が残っても平気なのだが、「きれいに縫ってあげます」と先生は言っていた。
5cm切って8針縫ったと言っていたが、8日夕方に手術し次の日になっても
手術のあとは痛くも痒くもないのである。
普通、ズキズキ痛むものであるが、本当になんとも無いのである。
10日朝病院でガーゼを交換に行って急いで神の倉に急ぐ。

そんな訳で川地塾でフライトするかどうかちょっと迷った。
11時過ぎ私の車で塾生を乗せて、荒谷山に上がる。
今日はバリオの感度を落として、サーマルキャッチの体感を鋭く磨く練習だ。
高層雲が張ってなかなかテイクオフする気が起きない。
12時頃になると神の倉からテイクオフした人は数人トップアウトして+300m位上げている。
ようやく是枝さんテイクオフしたものの、トップアウトにならない。南小山で粘っている。原田さん達も出たが苦戦だ。
河原さんテイクオフし、何んとかトップアウトし、右ボール奥に付け、リッジソワリングしている。
別に荒れている風ではないので私もテイクオフする事にした。
山チンしない限り手術した糸は切れる事はないだろう。

バリオの感度を落とすのが面倒なので、電源は入れなかった。
テイクオフしてすぐに右ボール奥に突っ込む。林道から+5mで2〜3回リッジをとる。
駐車場のところの尾根部が一番上がる。ブレーキングを効かせながらリッジを取り、何とか荒谷山山頂レベルに
たどり着き、河原さんに追いつく。田中さんも、じりじり上がって来た。
4機になってきたので、私は沖を探りに出たが、残念ながらリフトはない。南小山でちょっと探ったが、ダメだ。
バリオを切っているので、どの程度のリフトなのか、音で確認出来ないが、
ピッチングする程のリフトに当たるのだが、廻そうとするともう下がっている。
どちらに廻せばいいか分からない。山に近いのでサブロクをかけないで八の字にするとすぐにはずしてしまう。
一度エイヤ!で廻してみたが、サーマルを捉えきれない。とうとうマキゴンポイントまで下がってしまった。
ここでもピッチング起こす程のリフトに会うのだが、どちらに廻してもリフトに乗り切れず高度が少なくなる。
余程バリオのスイッチを入れようかという誘惑にかられるが、バリオ無しで復活した時の栄誉を思って我慢する。
地上50m位で粘っていると、田中さんが私の上に来た。
何とか上げ直そうと頑張っていると、川地さんから「緊急ランは
稲垣さん1人だけにして下さい!」と無線が飛んで来た。
結局なんともならずランディング。皆さんもサブランへ行ったので、粘りきれなかったのだろう。

夕方7:00より叔父さんの通夜があるというので、帰る事に。
私の車はサブランで皆さん乗せて神の倉に上がるので是枝さんの車を借りて帰る事に。
通夜は三次市三和町板木なので、嫁さんと車を走らせ神の倉で是枝さんの車を返却する。
しばらくぶりに従兄弟達と会ったが結構年をとっていた。
という事は私も年を取ったという事なのだが・・・。
叔父さんは御歳94歳で大往生であった。
6月11日(日曜日)
今日は、叔父さんの葬儀である。
私の若い頃に、5年間ばかり一緒に働いたものだ。
ボケることも無く、田舎に引っ込んでからは地域活動をしていた。
牛乳パックで腰掛やら、鉛筆立てやら作って皆さんに配っていた。
そんな活動していたので、中国新聞に記事が乗ったことがある。
手先が器用で地域の人の道具などを修理してあげていた。
叔父さんのご冥福をお祈りします。
6月17日(土曜日)
予報が雨から晴れになり、曇りになり、結局小雨が降ってきた。
午前中背中の抜糸をしてもらい、ガーゼを替えてもらいに病院に行く。

バルト11に映画を見に行く。
奇しくも題名は「バルトの楽園」だ。
第一次世界大戦で中国の青島での戦闘のドイツ捕虜達を収容した徳島県の
坂東収容所の実話を元にした映画であった。
結論から言うと、私が見るであろう映画の3年か5年に一度の秀作であった。
私は最初から最後までホロホロと涙が流れ続け、その涙で自分の心が洗われていくのを感じた。
悲しいとか嬉しいとかいう涙でなく感動の涙だったかと思う。

夫の生き方をそっと、しかしきっぱりと家族の生活をかけても応援する妻の愛のあり方。
ドイツの捕虜達を「ドイツさん」と呼び、一般人ですら憶測の情をもって接する坂東の人たち。
逃亡することも戦いとばかりに金網を破って、脱走する愛国者のパン職人の兵隊。
怪我をしたその兵隊を警察にも突き出さず、そっと手当てしてやる坂東のおばあさんと家族。
その心根に応えて収容所に帰る兵隊(迷惑かかるので誰に助けてもらったかも言わない)
その兵隊の心情を察し、不問にする松江所長。
1人息子を戦死させた所長つきの馬方の「うまさん」の苦しみ。
国家が起こした戦争なのに、一人一人のドイツ人を憎しんでも仕方ないことを
分かっていても憎しみがこみ上げる「うまさん」・・・。
日本人女性とドイツ人との間に生まれた「あいの子」の「しお」。
「しお」にも憎しみをむける「うまさん」も、松江所長の奥さんの言葉に心を溶かし
「しおさん、乗りねえ」と馬車に乗せてやる「うまさん」。

私が未熟な解説をしてしまっては薄っぺらになってしまうので、これ以上書かないが
この映画のせりふ一つ一つが監督やスタッフ達がいかに心を砕いたが伝わってくる。
相手の心を思いやった一つ一つのせりふが心を打つ。
もう一度嫁さんと見に行って一つ一つのせりふを味わってみようと思う。

昔日本人皆が持ち合わせていた、心やさしい日本人の心というか素朴な人間の愛というか・・・・。
1915年ごろ外国人も見たこともなかった、軍人や坂東の人々がどの様に
ドイツ人捕虜に接して行ったかを実話に基づいて描かれている。
当時の世界から見ると貧乏な、しかし日本人の背筋をしゃんと伸ばした、人の痛みが分かってあげられる
心やさしい人間愛が見事に描かれていた。
江戸時代に渡って来た宣教師達が見た日本人、明治に日本に住み付いたラフカディオハーンが見た日本人。
いづれも当時の一等国から来た外国人達の見た、日本人達の人格だったのである。
(エリートの日本人だけでなく一般の日本人が総じて立派な人格であったので、日本に住んだ外国人がびっくりしたのである。
そして、とても日本は植民地支配は出来ないと感じたらしい・・)

戦後、経済的に裕福になったが、日本人らしさをどんどん失った気がする。
バブルがはじけてこの十数年、何もかも捨て去ってしまったのか?と思う程である。
そして堀江や村上が世の中の中央に躍り出てくる時代になってしまった。
小泉首相にしろ、彼らにしろ時代の要請で躍り出てきて、それなりの仕事の出来た人間かも知らんが、
決して愛ある指導者達ではない。
日本を背負って来た様な顔をするが、決して世の為でなく、自己中である。
自己犠牲の裏打ちの無いところに、愛は絶対に成り立たないのである。

映画「バルトの楽園」で言えば松江所長は会津人であり、明治政府からはトコトン冷遇され、
苦しい少年時代を過ごしたからこそ家族をこよなく愛し、捕虜達を人間として愛しぬく事が出来たのであろう。
その人間愛を貫こうとすると、自分の所長という身分すら危うくし愛する家族を苦しませる事になるかもしれないが、
人間愛を貫ける人としての品格があるのである。

一ヶ月前に藤原正彦著「国家の品格」(新潮新書)という本を読んだ。
題名は「国家の品格」だが、日本人としての品格論であった。
数学者である藤原氏が日本人の誇りを取り戻させてくれる応援歌をよくぞ書いてくれたものと感激している。
私が62年間生きて来て心棒になっているのは、卑怯な事をするな!!という生き方である。
中学校までは、喧嘩は沢山やった。
決して卑怯なことは一度もやっていない。女や弱い者は守るべきものとしてきた。
藤原氏の父親も無条件で卑怯を憎むように教えたらしい。

藤原氏は第5章で武士道の復活をと書かれている。
「武士道とは多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能して来ました。この中には慈愛、誠実、
忍耐、正義、憶測などが盛り込まれいます。それに加えて、名誉と恥の意識もあります」
ほとんど現代人には死語になった感があるが・・・。
藤原氏は今こそと声をあげておられる。
こんな事をいうと、青臭いとか、世の中分かってないとかいう風潮であるが、日本人の価値は
ここにあるのだと、強調される藤原氏に心が震えます。

本当にありがとうございます。
論理が生命の数学者が日本人のメンタリティを解いてくれるなんて・・・・・
大いに勇気付けられた感がある。
ここにこそ、日本人の生き方があるのだと思う。
こういった生き方の人生哲学が価値あるものとして、昔の日本人は大事にして来たものである。
その様な日本人のメンタリティを堂々と本に表してくれた、藤原氏に心からの尊敬とエールを送るものです。

「国家の品格」と「バルトの楽園」に出会って久しぶりに日本人としての誇りを取り戻した気分である。

「男達の大和」をみて日本人の心が大好きになってくれた
ぱっちゃんに「バルトの楽園」をこそみせてやりたかったなぁ〜

6月18日(日曜日)積雲ポコポコ トップラン
今日は梅雨の晴れ間となった。積雲もポコポコ出来ている。
10時半にLDに到着。足刈さんと小田さんが居た。
学生は神の倉に上がり、ハングと勇さんは荒谷山へ上がっていた。
少し遅れて三次さんが来たので、4名で荒谷山へ上がる。
荒谷山はハングが3機組みあがっていた。
勇さんがラインチェックをしていた。ブローが入り始めたので、12時頃勇さんを押し出す。
南小山でサーマルゲットし、徐々に上げていった。
日陰になったり、無風になったりで、次から次へとテイクオフという状況にはならない。
しかし沖ではサーマルは確実に上がっているようである。

次に足刈さんがテイクオフし、上げて行った。2機共+300m以上あげてゆったりと遊んでいる。
あとから来た児島さんが、日が翳っている時テイクオフしていった。
沖では日が差しているのだが、さすがJ−リーガー機体を揺らす事もなく、レベルキープしたまま
あちこち動き回っていたが、テイクオフに日が差してくるとテイクオフに戻ってきてゆったりと上げて行った。
ハングの崎山さんがテイクオフし、上げていった。まだ日陰は続く。

今度日差しがもどったら、テイクオフしてようと、キャノピーを拡げる。
日が差してきて正面から風が2m位入ってきたのでテイクオフする。
正面小山を過ぎたところで弱いサーマルヒット。
廻すほどでもなくコネコネしていると、強いサーマルヒット。ハイバンクで廻し、一気に+200mばかり上がった。
赤柴山上空であと一気に+100mあげたら、雲の吸い上げに会う。ハングが一機近くで廻している。
そのまま吸い上がって行くと雲底に到達。少し雲中に入りかける。
ハングが順調に上げていたので、無線で雲底に付けた事を知らせる。
ハングからの返答は無かったので、神の倉方向へ行き、すぐに雲から離れる。ハングは向原近くまで行っていた。
白木山からクラウドストリートが出来ていたので、行きかけたが、次の雲が遠く
シンク音が鳴り止まないので、荒谷山へ引き返しトップラン。一時間のフライトであった。

第3陣のテイクオフを見送ったがメンデルが残ってしまった。
皆さんぎりぎりのサーマルで+100mまで上がり、荒谷山でリッジソアリングをしている。
ランディングは少し風が強くなったし、地森さんからMLも強風になったと無線が入っている。
ボール奥も木の葉が揺れているので、テイクオフしてすぐにボール奥に付けて、リッジソアリングを狙えとメンデルに伝える。
落ち着いてテイクオフし、右へ切って行ったが、ボール奥までは入りきらないで、
ターンを切って帰って来て、また右へ切ってボールの南先端(コジツーポイント)につけて、ソアリングを始めた。
私もテイクオフし、ボール奥につけ、リッジソアリングしていると強いサーマルは入ってきた。
くるくる廻し、+300mばかり上がり、2時間ばかり荒谷山付近をウロウロした。

誰も居なくなったので神の倉へ移動を開始。
谷渡りでは一度もサーマルをヒットしなくて、神の倉山系にたどり着いた時は、
神の倉テイクオフの下の林道から30m位に取り付いた。
右尾根ば上から下まで木の葉が裏返っていたので何とかなると信じて山肌にピッタリくっついた。
結構サーマル成分が混じっていて、リッジの強いところでブレーキングすると、
ホバーリング状態で上昇する事が出来る。
7〜8回振ってトップアウトした。
練習生達が4〜5名リッジソアリングしていたので、邪魔しても悪いのでトップランしトイレに走る。
二時間のフライトであった。

しばらく是枝家のフーちゃんと遊んでいたら練習生達がレベル以下になってきた。
南の屏風では是枝さんと松代さんが+100 m位でずっと遊んでいる。あわよくば自分もそこに行こうとテイクオフ。
+50mで行きかけるが、南の鞍部を越えたあたりが乱流で一気に下がる。しかたなく引き返す。
マキちゃん、時安さん、西沢さん、粟谷さんと延々一時間ばかりリッジソアリングを続けてしまった。
あとからテイクオフしたIさん、リッジをはずしてしまい、必死にリッジにしがみつこうとして、
ローター域でストールに入ってしまいヘロヘロと山チンした模様。
2連梯子が必要なので何とかトップラン試みようと半分くらいからの高度からリッジで上がろうと
もがくのだが、何ともならず、あきらめてランディング。山チン現場に行ってみると井口さんが指示していた。
Iさんには怪我もなく、キャノピーが少し破けたようだ。最後に投げたレスキューパラシュートは開傘はしなかった様だ。
開く間もない高度であっても木に引っかかって落下のショックを和らげてくれるはずなので
不幸にも落下したら低い高度でも投げるべきだと実感した。
広大生達がボンゴで2連梯子を神の倉から降ろして持参した。
是枝さん、児島さん、井口さんが15mの木に上がって、レスキュー始動。是枝さんがてっぺんに登って一枝切り落とす。
グライダーはスムーズに落ちて来た。皆さんご苦労さまでした。
Iさん、くれぐれもご両親や子供さん、奥さん、従業員さんに苦しみを与える事の無いように!!
私などよりもっともっと大きな責任を背負っているのですから・・・・。

ついでに学生諸君へ。
「身体髪膚これを父母に受く。敢てきしょうせざるは孝の始め也」です。
私も人の親なので子供が怪我をしたりしたら、どれだけ心配な事か。
ましてや親より先に死んだりしたら、親は気が狂ってしまうでしょう。
君達のフライトスタイルを見ているとめったな事はないと思うが・・・・。
荒槇牧場でのしっかりした練習、地森さんのしっかりした指導、先輩達の指導で、多分大丈夫だと思うが・・・・。
将来ある君達には、特に怪我ひとつして欲しくないと願うものである。
テイクオフでちょっと迷ったら、遠慮なく社会人に声をかけて下さい。
きっと何かサゼッションしてくれるはずだから・・・。

6月24日(土曜日)雲底飛行1時間半
首筋に小さなかさぶたが10年間取っても取っても出来る。
針灸師に針を打ってもらったあとがかさぶたになり、取っても取っても出来るのである。
背中の手術の養生中なので、医師に相談したら「10年間続いているのなら、切り取って検査に出してみましょう」と
言う事になり首筋の皮膚を5mm×30mmばかり切り取った。
表皮と真皮と皮下脂肪を切り取ったわけだが、皮膚も結構厚い(5mm)ものだと感心する。
6月20日に切除したので、両方のガーゼを取替えに病院に行く。
首筋のガーゼは耳にかけて大きな絆創膏で止めてあるのだが、汗ばむとかゆくてたまらん。
「26日からガーゼは夜だけ当てるようにしましょう」と言って材料をもらった。
とりあえず傷口はふさがっているのだろう。

昼前に帰宅していると河原さんからрり。「今日は神の倉行きません!」と答える。
1時過ぎになると空は晴れていて、積雲がポコポコ出来ていて結構発達しているのももある。
天気予報に反して朝から晴れていたので、フライヤーは神の倉に行っているのだろうなぁ〜。
この積雲だと絶対に上がっていくだろうと思い始めると我慢出来なくなり、パラを積んで神の倉へ走っていた。
「首筋の手術は皮膚を切除しただけなので、山チンでもしてショックを与えないかぎり、糸が切れることもないだろう」
と勝手な理屈をつけて車を走らせるアホなパラ重症患者であった。


到着するとすぐに勇さんが「上がりましょう!」と誘ってくれた。
勇さんも同じ日に私と同じ様に背中を手術して糸をつけたままだと言った。
パラ中毒重症患者は私だけでは無い様である。
学生2人と上がるので、彼らにビデオカメラを貸しテイクオフの様子を取って研究するように言う。
神の倉TOに上がると、積雲で日陰になり全員下がっていたが、沖の日差しのあるところで、
新社会人の中島さんがじわじわと上げ始め+300m位まで上がった。
すぐに勇さんは用意し、無風に近かったが、ついにフロントでテイクオフして行った。
残念ながらリフト帯が見当たらず高度は地上200mばかりまで下がってしまった。
しかし下げ止まり、ゆったりと廻し始めた。
私も無風に近かったがクロスでテイクオフ。お寺の南側で勇さんが回し始めた。
サーマルの延長線であろう所にかぶせた。
レベル-30mまで下がっていたが、下げ止まり+1m/Sec前後でじわじわ上がり始めた。
山際に寄らず沖へ、そして北に行きながら海抜1000mまであげる。

勇さんと中島さんは荒谷山へ行きながら上げている。
サーマル成分少し弱くなった様なので、先程上げたところまでもどってサーマルヒット。
ずっと+1m〜2m/Secの穏やかな上昇率だ。
地森さんが「白木山に積雲がすごく発達している」と児島さんに無線を飛ばしている。
どうやら、児島さんは白木山まで行ったようだ。
荒谷山上空には積雲もあるし、勇さんと中島さんが上げきっている様なので、荒谷山へ移動。
海抜1400mまで上げ、雲底目指すが雲の吸い上げが見当たらない。
私はもう一度神の倉テイクオフへ引き返す。
海抜700m(+150m)まで下がったが、何とかサーマルゲットし、雲底(海抜1700m)に付ける。
下では児島さんと中島さんが同じサーマルで上がって来ていたので、
雲に入りかけたので、「東に向かっています!」と2人に伝える。
雲の端を飛びながら、次の雲に行くべくフルアクセル。シンク音は続く。
鷹ノ巣山系の稜線にはたどり付き,久芳にはこぼれて行けそうであったが
田んぼに水が入っているし、引き返す事にした。
ずっとシンク音のままなので、神の倉へ帰るか、5Km離れた向原町の運動公園に向かおうか・・・
悩んだが、シンクは0〜1m位なので、神の倉へ帰る事にした。
100mの高度を残して帰り着く。山際はサーマル成分無くて、被っているせいか少しぐらぐらする。
MLを通り過ぎ神社の上で高度処理をして、ランディングアプローチに。
吹流しの角度からすると3m前後かなと思い、少し風下からファイナルランディングへ。
ところが、高度下がるにしたがって前に進まない。東屋近くの土手にショートしてしまった。
心配して(強風で引きずられる)勇さんとメンデルがかけつけてくれたが、何事もなく降ろせた。
二人とも心配してもらって、ありがとうございました。
久しぶりに罰金500円を払い、神の倉山頂のトイレ掃除をした。
先週に引き続き雲底につける事が出来たのがうれしい。
1時間30分のフライトであった。


フライトログはこちら


東屋に降りて話し込んでいると、由也から電話。
今夜レイナと2人で、我が家に来てくれるという。
おかあさんはスペイン語だというと「分かってる。おかあさん帰ってくるまで料理をしているから」と言うので、
学生に貸してあったビデオカメラを受け取ると急いで帰宅。
レイナはおかさん秘伝の「オーストラリアンスープ」とスパゲッテイサラダを作ってくれ、
由也はトンカツを上手に揚げてくれた。
「オーストラリアンスープ」の味をレイナに受け継いでもらったので
嫁さんは喜んでいると思う。
夜10時頃から遅い夕食を共にする。
私達がスペインに行くというので、レイナが「お守り」を持ってきてくれたのだった。
ホアンが帰国して4年経ってしまったが、いまでも
「おとさん、おかさん!」と我が家に来てくれる彼等を愛しく思う。
我が家に来る時は「ただいま!」と言って家に入ってくるのである。
40歳も離れているのだが、ホアンが取り持ってくれた縁である。
人と人の縁は不思議なのものだが、私達夫婦は幸せ者である。