5月17日(金)晴

明日早朝の出航に備えDDへ
JRの広島駅始発は5時。DDの出航は大畠の瀬戸の潮流を考え同じく5時。
前日に泊まり込むしか方法はありません。
神山さん(今回の船団長)の「10時に乗り込む」を自分は午前と聴き、発言者は午後の積り
と云う連絡齟齬がまずあり、先行きに若干の不安を感じることとなりました。

午後9時広島駅をJRで出発し、五日市駅下車、神山家の慎太郎君の車で神山さんと共に廿日市港へ。
カープの小久保大好きの慎ちゃんに前日の小久保の大活躍を褒め慎ちゃんご機嫌。
ご機嫌の慎ちゃんに「廿日市に付いたら出汐町まで5000円でアルバイトしない」「OK」の会話。
お土産の山となっても気にする事が無くなりました。
尚、慎ちゃんはDD座付き気象予報士です。
航海中彼の気象予報はすべてBINNGO。

DDには既に岩井君(料理・ナビ担当)が来ており、北伸のお二人、田村氏(艇長)
前川氏(田村さんの奥さんは前川さんが同行しないと長期航海のお許しが出ない)
ともに既におつきになっている事を聞き一安心。
その後、長野氏(エンジン担当)が到着。
あとは修ちゃん(野村氏)が愛犬との別れを惜しんで明日の朝到着予定。
「船に泊って皆と寝るより犬と寝る方がええ」「わしらは犬に負けるんか」の会話もありました。
その修ちゃん(ボースン)が12時頃現れ「犬は西条に預けて来た」との事。
3年前銚子から船を曳航する時神山家の奥様がネットで見つけた西条の犬の訓練所。
1泊3000円、夜泣きして500円で犬を預かってくれる訓練所。
野村家のお犬様はこちらの施設が大層お気に入りで、今回も修ちゃんが連れて行くと
「あ〜ら幸ちゃんいらっしゃい」の訓練生の一言にしっぽを振って飼い主の方を振り返りもせず
イソイソと着いて行ったと「薄情者」と修ちゃんのぼやくこと。

何れにしろ2艇7人全員揃って廿日市港で出発前夜を迎えました。

さぁ、明日からいよいよ航海が始まります。
♪あーした天気にな〜れ

5月18日(土) 曇りのち晴れのち雨

広島県 廿日市港ー大分県 姫島港

4時起床 ドンよりした寒空 念の為と最後に持参したフリースを着込む
廿日市大橋頂上付近に人影 きっと茅原具夫妻に違いない。寒さのなか申し訳ない事です。
5時 いよいよ出港
大橋の真下で「行ってきまーす「行ってらっしゃい」のエールの交換を数度。
北伸のトラメガでご挨拶。
生憎の曇天、華々しい船出とはならず西に向かうDDはどこか儚げで寂しげで
占部っちの涙を誘ったようです。

トラベルという英語は、旅に出るとトラブルが付き物と云う理由からつけられたそうで、
早速DDも電気系統のトラブル発生。

その一、パソコンの電源が入らない。
様々な情報のほか携帯電話の充電にも使う予定だったので少々厄介か?

その二 オートパイロットシステム(自動操舵装置)が作動しない。
こいつが動かないとマンパワーでの操舵という事で体力・神経とも相当キツイ事になります。

その三 測深器(海の深さを測る道具)GPSにも付属していますが、より精度を増す上で必要。

そんなトラブルを抱えつつ船団は順調に大畠の瀬戸を9時20分に通過。
潮流・風ともに頗る順調で難なく瀬戸を交わしたようです。

あまりに順調だったので、初日の予定地山口県・上関町を越え、
第二日目の予定地大分県姫島まで船足を延ばすこととしました。
上関には原発ジャブジャブ予算で作られたそれは立派な「鳩子の海」温泉があるのですが...

午前中順調だった風も午後二時ごろから強風に変わり、3時頃には風力10〜、メインセールは降ろし、
ジブセール(メインセールの補助)もリーフ(縮小する事)し、実に風呂敷大。
それでも時速7.6ノットで快走。DDは大きくヒール(傾く事)
16時20分、姫島着。
続いて北伸が5時に着。

町営温泉行きのバスの時間を調べるため、船を下り岸壁伝いに町に行く途中、漁を終えた漁師さんに出会い、
「温泉行きの町営バスは未だありますかね」「もう無かろう」「タクシーの電話ご存じないですか」
「まっときんさい。わしが送ったげる」 と云う事で、軽四輪の荷台に6人、助手席に一人乗って温泉場へ。
これって立派な道交法違反ですよね。大丈夫なの。

姫島にはお巡りさんが一人だけ。荷台に人が乗るのは、夏休みに孫を載せたジーちゃんの軽トラがあちこちに。
一人捕まえたら、皆捕まえなきゃならん。
夏良かった事は年中やって(違反)も大丈夫。
と云う姫島ルールがあるそうです。


さて、帰りの足はどうする。
取り敢えず片道の謝礼1000円を握って交渉。
帰りもお迎えに来て頂ける事となり一安心して有馬温泉と同質と言われる姫島温泉
300円(島民250円)に浸かり一日の疲れを癒しました。

港に帰ってお爺さんは自分の船で何かごそごそ。
グチ5匹 瘤鯛の子1匹 エイの部位のお裾分けを頂く事に
往復の車代で2000円 お魚代で1000円
気持ち良く受け取ってもらえました。

エイ以外は、修ちゃんが早速カルパッチョに

連日続く事になる大宴会の途中から雨の音と風の音がだんだん激しくなってきました。

エンジンルームの電気が終夜点灯したままで全員で改めて気を引き締めました。

激しくなる雨と風、明日の航海はちょいと厳しいものになる事でしょう。
                                            
 5月19日(日) 雨   姫島スティ

6時起床 激しい雨風続く
廿日市で待機の船付き気象予報士「慎ちゃん」に確認すると、雨は午前中一杯、風は夕方までとの事。
姫島スティ決定。
ガーリック・トースト、ゆで玉子、ウィンナーの朝食を終え皆でキャビンで四方山話。
14時の町営バスで町営温泉へ
温泉は「柚子水温泉」と言い(漢字は書き留めましたが読み方は忘れました)昔お姫様が櫛を使った処
その場からお湯が湧き出し温泉になったという伝説が残っていると、説明板に書かれていました。
14時の町営バス(無料)で島内唯一の信号機の前で降り、港へ。
島内に交通標識は一切ありません。信号機も学校前に一基だけ。
これは、将来島を出る子供たちに信号機の存在を知ってもらうためだけに
わざわざ取り付けたのだそうです。
軽トラの荷台に乗り放題は昨日の報告の通りですが、今のお巡りさんはシートベルトには煩いそうです。

姫島のお年寄り(特にオババ)は朝10時のバスで温泉に行き、まず入浴、そのご持参の弁当で昼食。
昼食後しばし就寝、二時ごろ起きてもう一度入浴・休憩、四時のバスでそれぞれ家の前まで
送ってもらうという実に優雅な毎日だそうです。
そんなオババが毎日10人以上、おじいは三人居たかな?
(お前ら7人充分おじいだろ。いえ、あそこでは若手です)

港に帰る頃には雨・風が修まり、洗濯開始。
乾かす積りでデッキに干したのですが、夜半に又雨、天然水洗いとなり果てました。

夜は手巻き寿司でいつものように盛り上がりました。

温泉から港に帰って来た時海を見に来ていた漁師さんのひとこと
「明日は天気はよーなるが、吹き替えしがの〜」
明日も波乱の航海か?


姫島情報 その二

姫島で驚くべきことはもう一つ
平成の大合併には目も呉れず、大分県なんとか郡姫島町を貫いており、
何と町長は14期(16期かもしれない)56年同じ方。
10回以上対立候補も無く無投票の町長選挙が継続中。
一期目の目玉施策は、町の役場の人数を倍にすること。
但し、一人分の給料を二人で分ける。
これで先ず産業の無い島に雇用を確保し、余った時間で、農業なり、漁業をして
穴埋めをしなさい。と、実行した事。
これが島民に絶大な支持を得た。
やがて車海老の養殖に成功し、実に豊かな島になりました。
お年寄りを温泉に送迎する町営バスは、町の役場の方が交代で運転。
道路も、街路も、町並みも美しく、来島者が心から安らぐ本当の静けさ・美しさに満ちていました。
で、今のご時世であちこち建設の槌音が響いているまだまだ活気に満ちた島です。

イーよね、こんな島で朝から町営バスで温泉に行ってお馴染みさんとお風呂・休憩所・
昼食でのんびり寛ぎ夕方家の前までバスで送ってもらえる人生の後半。
皆さん長閑な顔をされており、ギスギスした顔にはお目にかからなかった。
定期連絡船のターミナル(3階建ての鉄筋コンクリート造り)にはちゃんと
トイレにウォシュレットまで。
日韓共同開催のオリンピックのヨット会場になった釜山のヨットクラブにすら
ウォシュレットはありませんでした。
雨風に閉じ込められた姫島で色々聞き回った「最新版・姫島情報」でした。
 5月20日(月) 晴午後風強し  姫島ー福岡県・小倉区

出港前 油32リットル 水(160リットル)補給
水は堤防にある水道水を無断で20L缶で8往復。普段ならこれだけで気息炎々、
その日一日中アウトの筈が、人数と高揚感は全てを払拭。
元気に6時出港の予定が6時30分に。

この旅行中いつもそうでしたが、まず先にDDが入港し、その後北伸が入港、
北伸をDDが抱き相互の船の往来を簡素化していました。
この朝も当然そうでしたが、田村艇長がなかなかコックピットに現れない、
「ままよ」と北伸を抱いたまま舫いを離し超低速前進でスタート。
田村氏コックピットに飛び出してくる。
まず船が動いていることに驚きそれ以上に困惑の顔で「エンジンから煙が...」
繋いだままだったので直ちにエンジン担当長野氏が北伸に乗り移り作業開始、
一度工具を執りにDDに
船団長「どれくらいかかります」「20分」の言葉通り15分一寸で長野氏DDに帰艇。
その間連絡船用の港内を北伸を抱いたまま相変わらずの超低速でぐるぐる回っていました。
横抱きロープを離し先行する北伸、丁度その時出港の時間を迎えた定期船に気付いておらず
連絡船の行く手を塞ぎ気味。

ここで海上での進路優先順のお話(日本海域)
まず第一は漁船。何よりも権利が強い。避けなくて良い。
次に貨物船 続いて客船 ヨットなど遊びの船は最下位。
全ての船に進路を譲るか、避ける義務がある。

気付かず前進する北伸

今日は関門海峡を超える日、なのにまだ姫島の港内
どうなる北伸 どうするDD

  
 5月20日(月) その二

まずは熊本で取得したVHF(一応国際免許です)で呼び掛ける。
「北伸、北伸。こちらDD。応答願います」と二度・三度呼び掛けるもまだスイッチが
入って無い模様。
占部っちと廿日市大橋の上と下で呼び掛けあったトラメガを未だ返却していなかったので、
取り出し「北伸!後ろからフェリー接近」と呼び掛け、気付いた北伸大きく面舵で退避。
フェリーに汽笛を鳴らされる事無く無事フェリーを見送り、しずしず港外へ

一息ついた処で、お寿司のおにぎり・目刺し・アラの吸い物で朝食。

漁師さんの言葉通りの吹替えしの風が強い上に逆潮。平均速度3〜4ノットで、予定時間大幅遅れ。
たっぷりの時間を使ってコックピットで「北伸エンジン煙噴き上げ事故洋上調査委員会」開催。
事故調査委員長・長野氏より、「排水管に海水を入れるホースのゴムの劣化により
十分海水が行き届か無いためのエンジンの過熱で煙を吹いた」
措置は、「余分のホースを切って繋いだ」
長野さんは天才です。それだけの事を15分でやってのけ、何事も無かった様に報告。
その後VHF連絡でエンジンの様子を確認するも何事も無くエンジン快調
2200回転で運転中との連絡がありホッと一息。

ところが逆潮・向かい風で船足は伸びない。
8時ごろから見え始めた宇部の二本の煙突がいつまでたっても同じ場所に見え、
関門の橋脚はまだまだ霞の中。

日本の海は基本的に往来自由ですが、何箇所か「本船航路」が定められており、
ここは巨大船の往来が最優先されます。
漁船と言えども若干遠慮しながら通過しています。
その本船航路が関門海峡付近に二本あります。
大分から関門海峡という九州航路と、山口県から関門海峡への本州航路があり、DDと北伸は
その真中をどんどん追い越されながら進んでいます。
まるで関門海峡と云う「漏斗の口」に右と左から船が吸い寄せられ、
吐き出されているかのようです。

関門海峡の本船航路は上りと下りがきちんと定められ、我々はその端、
道路で言えば側道を本船の邪魔にならないよう進まねばなりません。
おまけに門司・下関を縦に走る船も頻繁に走っています。
全員でワッチしながら、16時15分無事関門海峡大橋下を通過。

  
その三

赤間神宮・巌流島などを右手に見ながら今日の泊地小倉漁港へ17時30分DD到着
処が後ろを着いて来ていた筈の北伸の姿が無い。
港の入口まで徒歩十分。見渡すと北伸は行き過ぎ。
携帯電話で、「石本、後ろに居ます。判りますか」「判ります」「行き過ぎです」「戻ります」

着岸後DD油補給(20L)、今日の行程44マイル、つまり1Lあたり2.2マイル。
船足が遅く、ストレスフルな一日だったが、L当たりのマイルが計算出来、
今後の油の消費に明るい兆し見え(予定の油代が浮きそうな気配)た。

夕食はマーボ茄子と岩井君持参のイノシシ肉の焼き肉
今夜も遅くまで酒盛り。
翌日にDDの今航海最大の事故が待っている事も知らずまたまた大盛り上がり。
明日はDD浸水騒ぎです。
 5月21日(火) 曇りのち晴れ  福岡県小倉ー?県・能古島

出港前に昨夜の宴会での北伸・田村艇長の告白
「実はGPSが利かない。緯度・経度の表示はあるが地図が出ない」あれこれ議論の末出た結論が、
GPSソフトの問題。
つまり全日本カバーのソフトでは無く、中国地方限定ソフトであるらしい。
田村艇長息巻いて、「帰ったら訴訟する」当然皆で焚付ける
と云う事で、今後はDDが先行し、北伸が後を追う、北伸の艇影に気遣いながら
DDは北上と云う事になりました。

修ちゃんとの朝の散歩(近くのコンビニにビール用の氷を買いに)の帰途、
岸壁に捨てられた吊り竿を拾う。
外国の港に入・出国する際の船の決まり事。
船主に相手国の国旗、船尾に自国旗、船のどこかに黄色い旗(検疫希望)を掲げなければいけません。
日本国国旗(百均で購入)掲揚のためのポールにすべく、この釣竿を修ちゃんは
きちんと改造しました。浮遊

さて、いよいよ名にしおう玄界灘へ船出です。
関門海峡本船用の漂浮灯がまだまだ残っているという事で北伸5時に先発、
DD遅れて5時15分出港。
走りながらの朝食は、フランスパン・ハム・ポテトサラダ
玄海灘に備え、雨合羽の上着を着ていても汗をかかない。
曇天の空にくっきりと朝陽。眩しくない、ずっと見とれて船を進める。
やがて左手一杯にずーと続く砂浜・松林。この景色が2時間ばかり変わらない。
玄界灘、波静かだったのです。
砂浜が続くという事は遠浅であるということ。

ヨットの構造を簡単に説明します。
ピンポン玉(船の本体)の片方に錘(バラストと言います)もう片方に焼き鳥の串(マストです)を
付けた様な物だと思って下さい。
180度ひっくり返っても自力で復元する構造になっています
DDの場合、バラストは水面下1,7メートル、重さ2トンです。
遠浅の海は危険です。ず〜と沖に出して水深器(そうそう修理完了してました)で探りながら
「海の中道」を海からじっくり見物し、なんとかその突端に届きました

「海の中道」突端は荒磯。海に向かって小さな岩礁が点々と。
先行する北伸を追いかけながら、ふと2年前のクルージングでの
「北伸三原沖砂州座礁事件」を思い出しました。
あの時は岩井さんが乗り移り、丁度通りかかった漁船の協力を得て何とか抜け出せたなぁ。
と、つまらんことを思い出したのがたたりました。

北伸(バラスト1.3メートル)よりちょいと沖出しして進めようと沖出ししたところ
ドーン、ドーンと二度の衝撃。
コックピットの机は倒れ、コンパスはキャビンまで吹っ飛び、そのキャビンは台風一過状態。
飛び出してくる神山船団長、直ちに操舵交代。次々飛び出す指示。
まずはキャビンの床を跳ね上げ浸水状態のチェック。
とは言え前回分の確認が出来ないからまずは大急ぎで「垢汲み」バケツ5杯。
その間長野氏は、航海中に取り付ける予定だった「自動垢汲み装置」の取り付け。
どうやらバラストと船体は乖離していない様子で第一段階の安全は確認。
第二段階は、バラストの鉄を包むFRPにひびが入りそこからの海水の漏れのチェック。
これは夕方まで待たねばわからない。

一安心し、先行する北伸を追い始めたところVHFから
前川キャプテンの声「DD・DDこちら北伸。
ここら辺り岩礁が多いですから気を付けてくださ〜い」だと。
あれだけアタフタしたんだ。とっくにバレテいるとは思ったが、「そう来たか」
因みに前川氏は元JAL機長で退職時に総操縦時間日本人二位の乗務経験で、
今後も破られそうにない記録だそうです。
今回の釜山遠征はこの方の「日本も韓国も出入国は実に簡単です」という
お気楽なお誘いから始まりました。
後々「実に簡単」な入・出国は「十年前」の話であると判明しましたが、もう航海は始まっており、
今更後悔しても始まらない事も解明されました。

  

能古島に続く


能古島 福岡県でした。
GPSが作動しない北伸が相変わらず先行し、どうも目的地とは違う方向に何度も迷走、
違う筈だがと思われる港に入ったため追走。
間違いに気付きVHFで連絡し、DDが先行し17:45 能古島へ。
港内に舫える場所が無くうろうろし、流行っていそうにない水上レストラン「スカイラーク」に
横抱きさせて貰うことに。
いつものようにまずDDが舫い、DDが北伸を抱く。

早速現地調査のため、通りすがりの人に確認
「スーパー・コンビニの類は?」
「この道を左に真っ直ぐ、能古島うどんを右に曲がると直ぐに雑貨屋」
「お風呂または温泉は?」
「もうすぐ出港のフェリ−に乗って福岡へ行くか、島内の温泉施設(要タクシー)しかない」
「但しフェリーは、福岡折り返しで次のフェリーは最終便」
雑貨屋で食料調達。島で唯一のタクシーの番号確認。
このタクシー、最終フェリーで福岡に毎日出稼ぎ。
つまり今夜のお風呂は無し。

港に帰ると長野さんがウェットスーツに身を包んで潜る準備中。
長野さんは若い頃空港建設などで外国にも行った程のプロダイバー。
北伸の船足が伸びないのはスクリューに名にか絡まっているらしい。
早速潜って除去作業、たっぷりの「ホンダワラ」除去に30分
明日から北伸の船足が伸びますように。
あとで聞いた話では、北伸のスクリューは帆走時水の抵抗を抑えるため普段は閉じられ、
機走時のみプロペラが開く特殊な構造だったため、結構ホンダワラとの格闘は
大変だったようです。
ついでにDDのバラストを覗いて貰ったのですが、傷は認められたが
亀裂やひびは見当たらないとの事。
水漏れも「自動垢汲み」が作動し事故後と変化なし。
皆で一安心。

プロダイバーのウエットスーツは5ミリから8ミリのゴムでオーダーメイド。
着脱には時間がかかるけれども水漏れの心配零とか。
そして不思議な事にこの船団にはウエットスーツが3着も用意してありました。

強の昼食スパゲティ。
夕食 豚しゃぶその後雑炊。
                
夜の宴会ではそれまで「10年前」でいじめられ役のキャプテンのフォローに長野さんが。
長野さんの豹変に一同吃驚仰天大騒ぎ、いつもにまして盛り上がりました。
どうやら皆70歳の年を忘れているようです。
 5月22日(水) 晴     福岡県・能古島ー長崎県・厳原

いよいよ国境の街厳原へ

厳原に着く前は「国境の町」でしたが着いて吃驚「国境の街」でした。
何しろ厳原には、陸・海・空三軍の自衛隊の基地があり、合同庁舎の5階建ての立派なビルがあり、
桟橋も海保用、フェリー用、ジェットホイール用と独立した三つの桟橋が用意され、
あとの二つは国際航路(釜山ー博多)という立派な街です。
街には韓国の方が溢れ、彼ら専用の「免税店」まで。
竹島の次は対馬が狙われるのではないでしょうか。
多分淡路島より大きいのではないかと思います。
一周するのに車(レンタカーもあり)で3時間かかるそうです。
百聞は一見如かず。まさにその通り。
ツアーのカタログに登場する写真で素朴で風光明媚な対馬からはとても想像出来ません。

そんな対馬・厳原まで能古島から55マイル。
何時も一時間5マイルで計算していましたので、今日は11時間と云うウンザリするほどの航程です。

朝、目の前の公園の水道から水を60L補給。
その前に修ちゃんと二人で下着の洗濯。
船団の中でこまめに洗濯したのは修ちゃんと石本だけ、他の人はコインランドリー頼り。
但しコインランドリーなど島には無く、結局釜山まで使用済み下着を抱える事となりました。
釜山でのコインランドリー騒ぎは何れまた。
(さてここで問題。英語でコインランドリーは何と云うのでしょうか?)

5時北伸先発、5時15分DD出港。
前日に懲り、DDのGPSは水深10メートルを切ると警報音が鳴るようにリセット。
入出港時は、画面を最大の詳細にし暗礁(赤い丸がしてある)を避けるよう船団長からの指示が。
で、ふと見ると北伸はその暗礁に向かいつつある。
前夜船団長からの指示「VHFのスイッチは舫いを解いたら直ちにオンに」に信じ早速連絡。
「北伸・北伸、こちらDD.そのまま行くと暗礁です。
沖出しして下さい」こうして二度目の座礁は回避されました。


厳原 地名って難しいですね。「いずはら」と読みます。

朝食のおむすび・卵焼き・わかめスープを操舵しながら頂きました。
午前中は風力5 北伸はエンジン2000回転で3〜5ノット。一方DDは1000回転で同じ速さ。
何しろ北伸はGPSが作動していません、先行するDDとしては常に北伸の船影を
気遣いながら北上しなければなりません。

この日は天気晴朗・波静か、風力まずまず・エンジン快調。
長野さんの「ホンダワラ殲滅作戦」の成功で北伸の船足もず〜んと伸びます。
天気の良さにワッチ明けにコックピットでお昼寝。心地良い・幸せなお昼寝でした。
航海中お昼寝出来たのは3回ほど、最初で最後の心地良いお昼寝でした。

天気晴朗・波静かですが海上には靄だか・黄砂だか・はたまた中国の何とか言う
スモッグなのか先が見通ません。
GPSは、明らかに左手に壱岐があるのですが全く判りません。
見渡す限り360度水平線。
因みに携帯は当然圏外。
そうそうパソコンは一日目に修復し、携帯の充電も遅滞なく行えています。
そんな何も事件が起こらない快調な(ある意味退屈な)時間が過ぎ、「ひょっとしたらあれが
対馬かな?」と思える島影らしきものが見え始めました。
それから一時間くらい走り「どうやら間違いなく対馬が見えた」と思っていると
突然携帯電話の呼び出し音。
「もしもし石本です」「こちら対馬入国管理の甲田です。
今日対馬入港のご予定と伺っていましたが?」 吃驚しました。
日本出・入国に関し、書類を対馬の入管にファックスし、その瑕疵を
確認して貰った相手がたまたま甲田さん。
その他、検疫・税関・海保などにも同様のファックスをしたのが一月前。
その甲田さんが所在確認の電話。
「はい、今やっと対馬が見えて来ました。あと一時間くらいで港に付きます」
「港の地図をお持ちですか」「はい今手元に用意しました」
その後やり取りがあり、DD,北伸を着ける事の出来る場所を確認。
初めての港で実に心強いサポートでした。
予定より早く港内に入り(17時30分)、いつものようにぐるりと一周し、
中島水産前の岸壁にまずDDが舫いました。
続いて北伸を横抱き。


中島水産を訪問し、港の管理者を確認。
判らないが、いつもヨットはあそこに泊めて問題無いのでOKとの事。
中島水産はイカの一夜干し工場。その後続々と帰ってくる烏賊釣り漁船から降ろされた
烏賊はトラックに運ばれるもの、中島水産に運ばれます。
DDは前後を烏賊釣り漁船に囲まれ、珍しがられ、何故だか烏賊をたっぷり漁師さんから頂き、
夜の烏賊尽くしに変身。

中島水産の工場長がとても良い方で、水OK、小分け烏賊の地方発送(広島へ)OK、
温泉の紹介、タクシーの紹介など致せ着くせりのご親切。
早速5名が烏賊を実家に送る手続きをしました。
(我が家に送った烏賊のお裾分けに有り付いた孫の幸ちゃんの烏賊焼き
夕食の大満足笑顔のメールが届いたのはその三日後)

で、呼んで頂いたタクシー二台に分乗し珠真の湯(たまのゆ)へ、
港から15分。港から町中に入ると川を挟んで約1キロ両側に飲み屋・食堂・みやげ物屋がずらり。
当然何処もハングル併記。食堂も韓国料理のお店が多かったかな〜。立派な港町です。

珠真の湯は、木造平屋建て気だるくやる気は無いけどケンはある怖いおばちゃんに400円払い、
すのこの廊下を進んだ先に脱衣所があり、風呂に入ると先客僅かに一人貸し切り状態。
透明のアルカリ温泉で、ややぬるめ。
やがてもう一人客があり先客と四方山話。
聞きづらい地元言葉だけどまずまず内容は理解出来ました。

風呂からあがってひと騒動。
長野さんの補聴器(イヤホン型で耳に挟むだけの小型タイプ)が見つからない。
風呂の洗い場から始まり、脱衣所、皆の荷物の隅々まで探す事小一時間。見つからない。
仕方ない、やる気の無さそうおばちゃんに住所メモを渡しておこう。
人は見掛に依りません。実はこのおばちゃん、親切・丁寧な恐縮屋。(悪く言ってご免ね)
で、タクシーを呼んで待つ事暫し、やって来たタクシーに乗り込もうとした時長野さん
「あった」「どこに」「上着の袖の折り返しの中に」
おばちゃんには悪いけどそのままタクシーに乗って港へ。

新鮮な烏賊のてんぷら、焼き烏賊、イカ刺しは殊の外美味しかった。
明日はいよいよ日本国出国。
 5月23日(木) 晴   厳原ー浅茅湾のとある浦の泊

浅茅湾、あそうわんと読みます。
今航海中最も期待していた場所です。

その前にお詫びと訂正。
烏賊釣り漁師さんから大量の烏賊の差し入れを頂いたのは、23日朝の出来事でした。
昨夜の烏賊尽くしは「中島水産」の一夜干しを購入して調理したものでした。

夕方の記述で、後々影響のあった海上保安庁の係官二人の来艇を書きもらしました。
若い海保の係官が軽四に乗ってやってきました。
一応レジャーボートが厳原に着岸すると必ず訪れているそうで、
今後の計画についてあれこれ確認します。
彼等からすれば、来艇の基本精神は「挙動不審船への尋問」ですが、言葉は穏やかで
「ヨットを楽しめて羨ましいです」を言葉の端々に織り込みながら、
乗員構成、行動予定、旅行目的等言葉巧みに確認します。
別段」言葉巧み」にして頂くなくても石本・前川と云うおしゃべりが居る構成、
言われなくても何でも率先して喋る、喋る。
随分簡単な尋問だったのではないでしょうか。

さて、出国の審査はお役所が開く8時半からと云う事で、早起きの年寄達は6時頃から散歩や、
洗濯、船のタンクに水の補給とイソイソ励んでいると、イカ釣り漁船が次々に帰って来、
規格外の烏賊をたっぷり「もってけ」と。

やがて役所が開き、書類上の艇長は、北伸の艇長と神山船団長に引き連れられて、各役所に。
海上保安庁(種類は受け取らず「聴き置く」)で処理。
税関(書類上に日付など若干の記載漏れ、まず船の出国完了)
船にも所謂パスポートがあり、まず船の出国が確認され、やっと個人の出国審査が始まります。
入国管理(種類の確認があった後、出・入国の検査所、国際線の空港のパスポートチェックの場所と
同様の造りの国際線フェリー乗降口側まで移動し、パスポートに押印してもらう)

さぁ、これで身は日本に在りながら日本を出国した事になり、船に乗り込んだら釜山までは
絶対上陸出来ません(緊急避難は除く)とは言え、港の付近での必要品買い足しは黙認されています。

13時 舫いを解いて浅茅湾を目指し北上です。
浅茅湾 東郷平八郎率いる帝国連合艦隊が、無敵と言われたバルティック艦隊を殲滅した
日本海海戦の際、艦隊を潜ませていた湾で、対馬の西と東を結ぶため、
1か所だけ運河を掘ったそうです。


今日から2時間ワッチ制(二時間毎に操舵交代)になり、ワッチ明けと同時に浅茅湾に入り、
ゆっくり景色を眺める事が出来ました。
帝国海軍が掘削した運河は、丁度前方から漁船が来て行き交う状態になりました。
自分が舵を握っていたら思わず吸い込まれてしまったのではないかと不安になるほど狭い海峡でした。
それ以外は、東郷平八郎や秋山参謀等海の諸先輩方がご覧になったのと同じ景色が目の前に展開し
2時間のワッチ交代まで昔と同じ景色を堪能しました。

一度日本国を出国しましたので今日は岸壁に舫いを取る事が出来ません。錨を降ろす「錨泊」です。
錨泊の基本を少々。

船の前後に錨を下ろします。
潮の干満を考慮し、若干長めにロープを降ろします。
干満の差は太平洋側と日本海側で、また地域により差異があります。地元情報の収集が必須です。
錨を巻き上げる時を考慮しなるべく浅い(水深10メートル程度)の風の影響の少ない、
航路で無い場所を選びます。
船の前後に錨を下ろし、海流により流されることを防ぎます。

この日、あちこち地図上に候補地を決め船を進めましたが、いずれも養殖いかだ(多種多様)に
占拠されておりなかなか見つかりません。
2時間ばかりうろうろし、何とか見つけたのは真珠筏(多分)の間。
前のアンカー(錨)を下ろし(水深30メートル)、北伸を待ちます。
通常だとDDが前後にアンカーをうって北伸を抱くのですが、何かの突発事故の際それぞれ一つづつ
アンカーをあげれば済むよう、後ろのアンカーは北伸にうって貰い、抱き合う事にしました。
で、北伸 筏の直ぐ側にアンカーを打ってしまった。
万が一アンカー引き上げの際、筏に損傷を与えれば裁判沙汰となり、基本全面敗訴。
莫大な補償金を支払う羽目になる。
おまけに我々の船の損害保険は国内限り。

事故地は日本国だが、身は日本出国後、この場合保険の扱いは?
エー、連日の猛暑で若干へとへとです。

浅茅湾 名も知らぬ浦のとまやの錨泊の続き

DDは既に一本アンカーを打っており身動きが取れない。
北伸には何とか自力で窮地を脱してもらうしかない。
田村艇長 少しアンカーを上げ左右に揺する事数度何とか筏に損傷を与える事無く錨が上がりDDの側に、
直ちに長野、岩井救助員が北伸に乗り移り適切な措置を神山船団長指示通りに行い無事錨泊準備完了。
で、夕食。

朝烏賊釣り船から頂いた烏賊のしゃぶしゃぶ
初め「ポン酢」が用意されましたが、石本は「黄金のごまだれ」をチョイス。
これが正しくベストチョイス。美味い美味い。
皆が真似してごまだれは底をつきました。
自然に溶け出した少量の烏賊墨で鍋の中は真っ黒。
「烏賊墨雑炊なんて誰も食べた事無いだろう。飯は?」「無い」
頂いた烏賊は7人では食べ切れないだろうとの判断でご飯を炊いていなかった。残念無念。

食後煙草のため長野さんとコックピットに上がると
波一つない鏡のような海面、煌煌と輝く満月、海面に映るくっきりとした島影。
悠久の時間・太古と変わらぬ静寂・明るいけれども漂う寂寥感・墨絵のような幽玄・
この航海に付いてきて良かったという満足感・大いなる力を感じずにはいられない生涯
忘れえぬ景色が広がっていました。
稚拙な語彙ではこの時を表現するのはこれで精いっぱい。

静かで深い眠りに陥りました。

で、いよいよ明日は釜山です。
でもその前に大きな試練が待ち受け、国境の海では奇跡が待っていました。
 5月24日(金)晴れのち曇り        浅茅湾ー釜山

今日の航程55マイル 11時間の予定
4時起床で出港準備 朝食を済ませ石本後片付け
でも様子がおかしい。
北伸は手伝いに行った岩井君の活躍もあり難なく錨上げ作業は終了し、近くでDD待ち。
そのDDどうやら右の筏と左の筏を海面化で支えたロープの真ん中に錨を打ったようで、
前進後退・巻き上げ揺すり作戦に難渋しており脱出作業凡そ1時間。
船団長「錨放棄」の最終決断。
5万円の錨、錨とロープを繋ぐ鉄のチェーン10メートル3万円を浅茅湾に置いてくる事に。
あ〜ぁ。
予定の5時を大幅に遅れる6時にやっと錨を上げてではなく、錨を捨てて出港。

浅茅湾を出ていよいよ日本海。

天気晴朗、波静か、皇国の興廃は掛かっていませんが、全員奮励努力し、釜山を目指します。
パクリです。東郷平八郎の日本海海戦に臨む帝国海軍乗組員に向けた檄文です。
「天気晴朗なれど波高し、皇国の興廃この一戦にあり、各員奮励努力せよ」決戦前夜発の電信文。

波は静かですが、うねりが瀬戸内とは違います。
瀬戸内海のうねり どんぶらこ
日本海のうねり どぉぉんぶらこぉぉ
お分かり頂けますでしょうか?

浅茅湾ー釜山 その2

エンジン1400回転、平均速度7ノットで順調に航海、GPS上でそろそろ国境の海と
思しき辺りで船団長から「エンジン停止」命令。
北伸を横付けし、岩井君DDに帰艇。
北伸のお二人もDD船上に移動。

3年前に亡くなった修ちゃんの奥さん みほちゃんの国境の海での慰霊祭です。
3年前みほちゃんを亡くした修ちゃんが生きる希望を亡くし、全てに捨て鉢になっていた時、
銚子でDDに出会い、「あの船が欲しい」と一言。
生きる希望に繋がればと神山・石本は購入を即決。
今考えると、性能・整備・備品・手入れ状態等検討すれば買うべきでは無かった船です。
しかしまず修ちゃんの生きる希望が最優先でした。
神山・石本は奥さんに借金しました。
こうして手に入れた船です。修ちゃん達はお子さんに恵まれず、
お二人で海外旅行などなさった事がありません。
元気になって韓国遠征を決断するまでに回復した修ちゃんは、一人で韓国に行くのではなく、
みほちゃんも一緒に行くのです。
船尾にみほちゃんの写真、お水、果物を用意し全員で慰霊。
石本が阿弥陀経を覚えている処までお唱えし、皆で8度南無阿弥陀仏を唱え、
浄土真宗のお経の締めの言葉
「願似此功徳 平等施一切 ・・・ 往生安楽国」と締めました。
この功徳を持って全てが平等になされますように安楽な処で往生なさって下さい」と解釈しています。

みほちゃんを思うとまさに往生安楽国で、「修ちゃん元気になって航海中昔の野性味がすっかり
戻りましたよ。
安心して往生して下さいね」と心からお念仏出来ました。
お念仏し、心静かに涙した国境の海の出来事でした。

で、航海はリスタート。
コックピットで長野さんが、「石本さん、今後お坊さんと呼んでもいいですか?」
との質問に「お布施が頂けて初めて坊主です」
と云う事で、まず船団長に「お布施は?」「ありません」
続いて修ちゃんに「お布施は?」「気は心じゃけー」
「長野さーん、お布施が貰えんけー。坊さんじゃないらしい」

で、コックピットで一休みしていると神山さんが「いっしゃん はよー上がっておいで」と叫んでいます。
北上を続けるDDの右舷側をイルカの大群が南下しています。
5列渋滞(六かもしれない)で約2分(もっとかもしれない)海面を覆い尽くす、丸で日本海中のいるかです。
大袈裟かもしれませんが百頭以上二百未満はいたのでは。
きっと全員「ポカん」と口を開けたまんまだった事でしょう。
写真を取ることも忘れ見とれていました。
やがて浪間の彼方に去ったイルカの大群。誰言うともなく
「きっとみほちゃんが日本海中のイルカを集めて見せてくれたんじゃ。
きちんとこっちに帰るんよ。先に帰って待っとるけんね」 「みほちゃんありがとう」

国境の海の奇蹟でした。

釜山は凄い街です。
良い風に恵まれ大幅に予定時間より早くに島影が見え始めました。
島影にざっくりと岩肌が見え針路の目標にしていたのが実は高層マンション群。
五日市の海岸沿いのランドマークタワーの3倍の大きさのマンションが岬を覆い尽くし
その数50棟以上。
まずは海の上から吃驚。岬のマンション群を後ろにし港の堤防が見え始めハーバーを
取り囲む百メートル以上の高さのマンション群にもう一度吃驚。
その後釜山滞在中の仲間内の流行り言葉「今韓国と戦争したら負ける」を初めて口にしました。

で、DD入港時に突然舵の効きが悪くなり、左から超豪華モータークルーザー、
進路は狭く張り出す他の船の船首。
舵を握る船団長の「舵がきかん「舵が利かん」の絶望的な声。
2時半 無事桟橋に着けられたのは、きっとみほちゃんのお蔭。
後で見ると、船の足拭きマットを入港時一瞬スクリューを逆転した際巻き込んだようで、
桟橋から棒で取り除く事が出来ました。

誰じゃー、洗濯物を取り込んで無かったのは。

       
 さて、第一部「往路」は終わりました。
明日から第二部「釜山編」です。
当然波乱万丈。活気溢れるコリアンパワーに平均70歳のおじさん達は圧倒されまくりです。

聡明で明るく前向きで元気な美人のSooさんが登場します。
韓・英・仏語に堪能ですが、日本語がNG。
それでも何とかコミュニケーション出来ました。
アリランレース(釜山ー博多間のヨットレース)女性の部優勝経験者です。

 5月24日(金)     釜山ヨットハーバー(第一日)

DDは、桟橋で待ち構えていた大勢の方がこちらから投げたロープを引っ張って下さり、
何とか針路を確保出来無事に指示された3号桟橋21号(だったと思う)に舫えました。
ふと見ると前川CP ご婦人と大袈裟なジェスチャーで再会の喜び表現中。何と挙句にハグ。
この時桟橋には、このご婦人のほかハーバーガードが3名、釜山ヨットクラブのリーさん等
沢山のお出迎え。
ハーバーの桟橋は日本より低く、遠近感を喪失している石本には乗降に苦労しそうな
半端な高さになっていました。

改めて街を見渡しメモした感想を原文のまま
「釜山は大した町で想像を絶する高層ビル林立。経済成長の証を目の当たりにする。
驚き」とあります。

釜山ヨットハーバーは日韓共同開催のオリンピックの際、ヨット会場として開発・建設されました。
周囲に林立する高層ビル群に抗う様な3階建ての横に長い建物と、DDが小さく見えるような
大型ヨットやモータークルーザーが恐らく200艇以上は収容出来る桟橋を持ち、
修繕用のヤードも完備した施設です。端から端まで歩いて15分は掛かるでしょう。
朝夕、地元の健康志向の皆さんの絶好の散歩・ジョギングのコースになっていました。
ハーバーの両端は100階建て以上のマンションが林立(写真を撮ってるんですが
サイトへの取り込み方を知らないので何とか文章でお伝えしたく悪戦苦闘しています)
ヨットと併せ観光写真の被写体に絶好です。

さて桟橋。
ややもすると制服のお兄ちゃんが来艇、キャビンに入り「キャプテン」とご指名が、
「パスポート!」「オール」と、単語だけの会話。
全員のパスポートを名も知れぬ、所属も判らない若者に託すことを躊躇していると、
釜山ヨットクラブのリーさん(日本語が判る)が、「渡して大丈夫です」とフォロー。
パスポートを持って若者去る。

前川CPの10年前話では、「釜山入国は簡単です。
友人のウィンディが全部やってくれるからパスポートを渡しただけですべて完了、私何もしてません」
「イミグレーションは」「行ってません」そんな馬鹿な
でも、そのウィンディさん、今桟橋に居ない。
代理に奥さんのスーさんだけ(まだご紹介を受けてませんが)
パスポートを持って行ったまんま若者はなかなか帰ってこない。
じぇじぇ
 釜山(一日目) その二

パスポートを持って行った若者を待つ間に前川CPからスーさんを紹介して頂き、
スーさんから釜山ヨット協会の李さんの紹介を受けました。
李さんには1か月前、韓国の入・出国に付いてファックスをし、電話で少し会話していましたが、
いまいち要領を得ない状況のままでした。
この日は、スーさん仕切りで、李さんはスーさんの影状態で、入国作業は進められました。
やがて、若者がDDに帰、パスポートは無事返却されました。
今の状態をスーさんに確認すると「ハーバーの上陸許可が下りた他状態」との事で、
やって来る検疫検査官の登場を待たねばならないとの事。
やって来た検疫検査官は自分の聴きたい事だけを聴き、書類にサインと署名・捺印(ハンコが必要。
えっ、韓国で)を求め、必要個所に「NON」と書くよう強要し、さっさと帰りました。
次は税関事務の筈と思っていましたが、いきなりスーさんが
「これからイミグレーションに案内します」との事。
スーさんの車とタクシーに分乗し釜山港の側のみすぼらしイミグレーション・オフィスに出かけました。
先客の東南アジア系の船員は十分怪しかったのに、我々の方がもっと怪しかったんでしょう。
この後とんでもなく不思議体験を味わうことに。
スーさんいきなりイミグレの係官に「私の夫は米軍関係に勤めており、然るべき連絡が来ている筈だから
この人達の入国審査をさっさと済ますように」(多分)と、韓国語でまくしたてます。
必要書類を各自で書き(DD関係は石本チェック)提出。
まず前川CPがTVモニター・カメラ・指紋採取用タッチパネルが一体となった機械の前に座ると
あら不思議。
TV画面には前川CPの後ろで順番を待っている神山さんの顔が、係員大慌てで操作し直すと、
今度は入り口付近で待機中のスーさんが画面に。
三台用意された全ての機械で同様の不思議現象。
で、人が変わると何なく事が進む。
結局一番初めに始めた前川CPは最後にOKとなる。

挙動不審+スーさんの高圧的態度にいかったイミグレ係員の意地悪か?
本当に不審者としてしっかりチェックのための時間稼ぎだったのか判らないまま、入国審査終了。
やれやれ。

それにしても入国審査を終えていない旅行者が野放図に街中を動ける国って、どういう事よ。
と頭の中でちらりと考えながら同時に「何とゆるい入国審査」と
若干韓国を見下げた気持ちを持ってしまいました。

帰りの車の中でスーさんの「何をサポートしましょうか」の質問に「風呂に行きたい」
「夜は焼き肉を食べたい。冷えたビールが飲みたい」と言いたい放題。
運転しながらあちこち電話するスーさん。
その合間に「私昔運転が荒かったの。
フィラデルフィアの妹がこちらに来た時運転が乱暴だと言われ今はとても大人しくなったの」
じぇじぇー。
追い抜き・車線移行・右折左折の割込み、今でも十分助手席の私は恐怖を感じてますけど。
で、あちこちの連絡が完了しハーバーに再び李さん登場。
スーさん帰る。李さん残って我々をさるホテルの日本式お風呂のある処へ連れて行き、帰る。
風呂から上って目の前の海岸を散策すること30分。前川CPより全員集合の指示。
スーさん再び登場し「先行するからタクシーで着いて来るよう」指示。
狭く猥雑な通りをあちこち通り抜け着いた処はお肉屋さん。
二階に上がれば焼き肉レストラン。

上から金色の蛇腹が伸び、漏斗のような吸い込み口。漏斗は蛇腹のお蔭で上下左右自由自在に動くので、
炭のいこり(これって広島弁それとも標準語)が悪ければ、炭の真上まで降ろしどんどん
空気を吸い込み炭火をいこす方式。

ズラリと並んだ副食品は、半分以上がお口にあわず、お口にあうものは直ぐに無くなりましたが、
焼き肉(牛)は美味かった。
ビールは石本は美味しいと思いましたが、永野さんはNG。
(この一言でヨットでの夜は高い輸入ビール=アサヒスーパードライとなり、財政を圧迫する羽目に)
今日は美味しいキムチには出合いませんでした。
こうして釜山一日目を終えました。
 5月25日(土) 晴     釜山(二日目)

釜山に着いた 釜山で何するの? ...

数々のトラブルに見舞われながら、各員の奮励努力でDDと北伸は何とか釜山に着きました。
「今日は何をしよう?」「何も考えてない」
釜山滞在中のスケジュールは全くの白紙。
釜山サムシングに目的・目標があったわけではなく、
「船で釜山に行く」が最大の目標であり目的だったようです。
で、こうなると真剣に「今日何をする」状態です。
取り敢えず昨日スーさんに「日本語ガイド付き市内観光バスツァー」をリクエストしていたので、
あれば是非とも全日コースに決定し、時間を使う事にしスーさんを待つ事に。

ウィンディさんあらわれ、「4名はスーの車に。残り3名は私と徒歩。
バスの発着場に案内します」徒歩組に参入。
ハーバーを後にして右手へ。こうして何気なく引き連れられたハーバーから
右手がその後すっかり生活の中心となりました。
始めの刷り込み程怖いものはありませんね。

バス停でスーさん達と合流。で、ウィンディさんの説明。
「ご希望の日本語ガイド付き市内観光バスツアーはありません。
昨日お渡ししたガイドブックにバス路線も乗っているのでご希望の場所にバスで移動して下さい。」
一寸待ってよ。
昨日着いたばかりで釜山のバスの乗り方(料金は先払いなの後払いなのとか、小銭はまだ無いし)は
知らないし、何処に行く当ても無いから無難にバスツァーを選んだのに、
そりゃーあまりにつれな過ぎません」と言いたかったのです。
しかし百戦錬磨の船団長神山氏「はいはい判りました。
ここまで連れて来て下さりありがとうございました。
お忙しいでしょうからここでお別れしましょう。
後は我々で何とかします」だと。
で、どうするつもりなのよ。

平均70歳のおっさん7人組はこうしてバス停に遺棄放置されてしまいました。

どうなるんでしょう、今日一日、そして明日から

土曜日だったため向こうの方へ人の波がぞろぞろ。
長い物に巻かれるのは大好き、「無計画の漂流」始まり始まり。
どうやら人の波は小高い丘に向かっています。何があるのか判らないのにそちらに向かうおじさん達。
何故か先頭は前川CP.
「何があるんですか」「知りません」「十年前に来たんですか」「いいえ」
「じゃ何故」「人が動いているから」
これだけの理由で先頭を切る人も問題ですが、無批判に付いて行く残り六人にも問題ありです。
当然のようにおじさん達は丘の途中、と云うより鳥羽口もそこそこに「もうエーじゃろー。
あっちの浜辺の方が面白そう」と来た道を引き返し、海岸方面へ。
海岸に何がある訳でもなく一時間かけて端までトボトボ。

端まで来ると「観光案内所」と日本語看板が。
地獄に仏とばかりに飛ぶ込み「日本語の判る人」
シーン
手を振る係員。勿論NOのサイン。
その隣に水族館。時間潰しには良いかもと入場料チェック。
日本円で2200円。ここで何故か「宮島水族館」との料金比較。
「高かろ〜」「おまけに3D映像もありだと」
片目不自由の石本は3D映像を見る事が出来ません。パス。
「暑い」「冷たい物が欲しい」との圧倒的要望で入ったのがスターバックス。
珈琲の嫌いな石本にとってスタバは初体験。
なにしろ「ビール」をオーダーし、お譲ちゃんに冷たく「NO」と言われ、
皆に笑われ仕方なく抹茶風味のアイスにオーダー変更と云う
お粗末なワンシーンを演じた程でした。

涼しい二階席で十分寛ぎ、次なる行動の相談。結論は
「船に帰ろう」この人達はつくづく羅針盤が無いと生きていけない人達なのです。
「陸に上がった河童」と言いますが、河童はおじさん達よりきっと可愛いいと思うよ。
で、元来た道をまたもトボトボ歩き始めます。
不思議なのは地図もも持たず、自信にあふれて正確にハーバーに全員が向かう事です。
不思議な方向感覚です。



「無計画の漂流」でトボトボ歩くおじさん達を哀れと思召したのか
「神様の贈り物」が用意されていました。
何しろDDは「神様の贈り物」と云うラテン語の頭文字。
港への途中、それから毎日通う事になるスーパー「ホームライフ」に遭遇。
HLは、元フランスのスーパーの釜山支店。
店内をローラースケートで店員が走り回っていた程でかい建物を
地元資本が購入リニューアルし再オープン。
早速一階のフードコートで各自好きな物をオーダー。
韓国風焼きそば(◎)を、修ちゃんはおむすびに惹かれ生ぬるそーめんを(×)で昼食。
その後地下の食品売り場へ。

韓国語が読めない・話せないで途方に暮れているとひとりのデモ販売のおばちゃんに遭遇。
初めは恐る恐るの英語で会話していたのですが、このおばちゃん日本語OK。
欲しい買物をするため広い店内をおばちゃんに付きあって貰ってうろうろする事小一時間。
その間当然「デモ販売」は休止。
夕食用の特売の「牛」「豚」の数量はおばちゃん任せ。
初めての店で大した混乱も無く買い物出来たのは偏にこの方のお蔭。
終わって、「貴方の担当の品をお礼に購入したいのですが」と申し込んだのに
「お買い物して下さっただけで十分です。
明日からも宜しくね」とあっさり断られました。
その後、毎日このおばちゃんに会いたくてHLに出かけましたが、
一度もお会いする機会がありませんでした。
小一時間付き合って貰ったお蔭で後日の買物で、「何が何処」はほぼ見当がつき、
広い店内をうろうろすることなく、効率的に買物出来るようになりました。

HLは、その後判ったのですが女子店員は殆んど韓国語しか判りませんが、男子店員は全員英語が判り、
おばちゃんが居なくても買物に不自由する事はありませんでした。

広島を出る時、修ちゃんがお友達の板前さんに頼まれた、韓国にしか無いという「器がステンレスで、
蓋がタッパーウェア」と云う冷蔵庫で効率よく使える容器も男子店員に
陳列棚まで案内して貰い無事ゲット。
現在我が家でも重宝しています。

夜は船で焼き肉パーティ。
韓国の大蒜はパサパサ感が強く辛い。
牛は美味しかったが、豚は(残飯が餌?)の所為で不味かった。
                    
 5月26日(日)   釜山(三日目)

釜山地下鉄事情

流石に「無計画の漂流」を反省し、三日目の行動予定を「地下鉄に乗ってチョンギ市場訪問」と、
目的地を設定。
朝食の、トースト、目玉焼き、ウィンナー、みそ汁の朝食を食べながら船団長の提案が議論することなく
瞬時に結論となった辺り、まだまだ個々の主体性を持たないおじょさん集団です。

ウィンディさんから貰った10冊以上の日本語で書かれた「釜山観光案内」を検討し、
中の一冊を本日のガイドマップに設定し、「本日は石本がご案内します。
着いて来て下さい」と宣言。
六人のおじさんを引き連れて地下鉄乗り場探し、どうやら一駅やり過ごしたらしい。(出足で早くも)
でも歩道から地下に下りる階段(エスカレーター)の構造物は無かったのにな〜。不思議。

地下に降りて駅構内探索、切符販売機発見。
しかし念のため、駅事務所に行き、「始めて釜山の地下鉄に乗る。切符の買い方など教えて欲しい」
と駅員に依頼し、販売機の側まで来て貰う。
で、これが大正解

釜山の切符販売機
1.紙幣は1000ウォン紙幣しか使えません。
2.その1000ウォン紙幣も新札のみOK,旧札はNG。
3,コインは全種類使用可能。
4.初乗りは1200ウォン、それ以上は1400ウォンで何処までも
特に、1.2.は、日本では考えられない事なので、駅員のサポートが無ければきっと
パニックになっていたでしょう。
実際に旧札が機械にはじかれた時は理由が判らず全員パニック。
大体、新札・旧札が入り混じって流通している事自体問題でしょう。
7人分の切符を買うのに一人一枚づつ延々と機械と格闘しました。

販売機は少々問題ありですが、構内は清潔感あふれ、落書きなど見当たらず、各駅に番号が付記してあり
韓国語が読めなくても地下鉄マップと照らし合わせ乗り換えもスムースでした。
韓国地下鉄事情 その二

途中乗り換えもスムースに終え(でもないか、乗り換え駅の前にあちこちに散らばったおじさん達に
「次乗換」を告げるのも結構大変だったな〜)チョンギ国際市場最寄駅到着。
案内マップによると地下鉄出口10番から出るらしい。
地下鉄通路は、真ん中の店舗を挟んで両側に通路、その通路の壁際に店舗と云う、
通路より店舗主体の地下道です。
地下道を上から輪切りにすると、壁・店・通路・店・通路・店・壁と言う作りが延々と続きます。
大阪梅田の地下街の通路をイメージして頂き、あれをもう少し猥雑にし、
喧騒を加味して頂ければよろしいかと。

この通路をおじさん達はそれぞれ自分に興味ある店の前に立ち止まり見とれてばかり、
中々前に進みません。
20番台後半から始まった出口看板もやっと11番。
さて次が10番かと前に進むと9番出口の看板。
えぇ、またまたやり過ごし?
そこでふと気付いたのは、11番の前は13番だった事。
前川CPが、「石本さんこっちサイドは奇数じゃないの」と云う事で、もう片方の通路へ行ってみると
9番の出口の反対は8番出口。
おじさん達を引き連れてきた方向に反転。
(誰も文句言わない。鷹揚なのか、優しいのか、何でも良いのか、良く判りません)
             
10番出口の外は市場独特の想像通りの風景です。
煙草の吸い殻、ひび割れた道路、ブチまかれる水、喧嘩腰にしか聞こえない会話・漂う腐敗臭・
けたたましいクラクション。
ある人は「活気に溢れている」と言い、外の人は「うるさい・汚い・臭い」と云う風景です。

日曜日と云う事でかなりの人出。
市場まで来たけど、どうする」「あのでかいビルなら何かあるじゃろ」と云ういい加減な意見で
ウォーターフロント開発で建てられたらしい観光ビルへ。
おじさん達面倒なので手近な入り口からビル内へ。
ところがこれがどうやら従業員出入り口、ビル内漂流者となり、一階へ降り、
観光客が出入りしている正規の出入り口(多分)からビルへ。

そしていよいよこの日のクライマックス 
「女の闘い」の幕が開きます。



馬鹿と煙は何とやら、まずはエレベーターで最上階へ。
眼下に広がるのは釜山港。
相和19年の終わりか20年の初め、あの釜山港のどこかの桟橋から母の背中に負ぶわれ、
広島へ帰って来たんだ。
天津から陸路釜山へ、そこから連絡船で下関へ、汽車に揺られて広島駅に付いてホッとした母に
易者が近寄り、「奥さん、あなたぁこの子で苦労するよ」と言ったとか。
あの易者は正しかった。
そんな事を想い出しながら再び一階の魚市場へ。
「10年前はここで魚を買って二階の食堂で調理されるのを食べた」と前川CP。
適当な(料金的に)魚の無いまま二階へ。
階段を上げって適当に左折、行き当て理に入れ込み座席。
つい立の前で立ち止まると店員A(30代後半・女子)登場し、料理と安さを説明、
続いて即座に右から店員B登場、同様の説明。
暑さと疲れで7名つい立を挟んでばらばらに座りこむと、ABそれぞれが「こっちに座れ」と言う。
ユ二オームも無く、普段着にエプロン姿だったため、つい立が境界線の別々の店だとは
露思わぬおじさん達。

暫くして事情を理解し、石本好みのひっつめ髪ポニーテール風の店員Aの店に
上がりこむと始まりました「女の闘い」
喧嘩腰の韓国語での大声口バトル。
以下、推測で再現。
「こっちに座った方が先でしょ」「いいや人数はこっち が多かった」
「あんなたはいつも私の邪魔をする」「邪魔をするのはそっちでしょ」
「この泥棒猫」「フン、それはこっちのセリフ」
以下延々と続くのですが、罵詈雑言の語彙不足です。ここまでが精一杯です。

驚くべきは、そんなバトルが客の前で繰り拡げられているにも拘らず、
店員Aの店のオーダー担当はおじさん達のオーダーを確認。
突き出し・ビールがまず届く。バトル継続中。
次の客が来るまでこのバトルは続くのか?それにしても客足の途絶えた午後一時。
おじさん達の気まずさには構わずバトルは続くよいつまでも。
やがてメインの鍋・刺身などセットが届くがバトルは尚も継続。
おじさん達も呆れつつ、食欲に勝てず食事に集中。
やがてバトルを終えた店員Aおじさん達に勝利の笑顔のご挨拶。
オーダーの伝票を確認。
それゃーそうだ、あれほどのバトルに勝って引っ張りこんだ7名の明らかに日本人と思える
7目のおじさん、きっとたっぷりオーダーしたに違いないと思う筈。
ところがこのおじさん達、オーダーしたのは鍋・刺身セット3名分とビールのみ。

伝票から目を上げこちらを見た時の顔の怖かった事。
さっきのバトルの続きで「なんじゃお前ら、たったこれだけかぁ」と怒られるのを覚悟しましたね。
その後、店員A帰るまで一度も愛想笑いなどしなかった。
でも安かった。

つい立で仕切られたお店は少なくとも10以上はありましたので、
毎日あちこちでこんなバトルが繰り広げられているのでしょうか。
それと、一階で買った魚介は正しく客の元に届くのでしょうか。

今韓国と戦争したら、女子の力の差でっと日本が負けるね。
韓国女子は、強い・逞しい・怖い物が無い。
若いお嬢さんとは一度も会話出来なかったので、年齢に偏りはありますが、
韓国女子への偏見と言われてもしょうがない感想です。


明日から「航海日誌」再開します。乞うご期待。
「女の闘い」編を終え、明日は「デインジャラス国際市場」編です。
一般観光客は絶対に入り込まない、ガイドは決して案内しないディープゾーン潜入記です。
前川CP,修ちゃんの後ろからオズオズと着いて行きました。
 まだまだ釜山三日めが続きます。

激しい「女の闘い」の魚市場から外に出ておじさん達は、無目的に街を散策する班
(神山・田村・長野・岩井)と、バッタ物探し班(前川・修ちゃん・石本)に分かれる。

「シネマ通り」と名付けられた猥雑で喧騒に満ちた通りに入ります。
この通り億深く両側に様々なお店が軒を連ねる通りで、途中左右に枝分かれします。
奥に行くほど、左右に曲がる度どんどん日本語(売り手の)が稀薄になり、ディープさが増します。
それにつれ、英語の認識度も下がります。
そんな通りを前川CP、英語で「10年前この辺りに居た金を知らないか?」と聞きまくります。
金さんこそ、前川CPに10年前「バッタ物」を売った売人です。
バッタ物商売の趨勢は知りませんが、普通商売は10年続けば「立派な物」であり、
バッタ物で10年商売を続けているとすると、これは大したものです。
で、金さんを探して奥へ奥へ。
何故なら訪ねた答えが「この辺には居ないけど、奥に行けば居るかも」と、
多分ディープゾーンへ誘なう常套句だったのではないでしょうか。

ある店で金さん探しの質問に「金は知らないが何が欲しいの」と初めて具体的な返事。
「キーホルダー・財布を探している」「ちょっと待て」店の奥に消え、再び登場、二人連れ。
「付いて来い」
路地を抜け、コンクリート剥き出しの階段、暗い、二階へ、鍵穴三つ、むっとする暑さ、
電灯とクーラーのスイッチ入る。
前川CP・修ちゃんが居なかったら、「」路地を抜け段階で回れ右」していた筈です。

厳重なセキュリティ(客では無く、売り手の)、豊富な商品、市場の喧騒とはかけ離れた静寂
(これが不気味)、明るい店内
一人(日本語を話す)専ら接客担当、もう一人は客の行動監視。
お茶の接待は無いが(女子が居ませんから)煙草はOK。
客の言葉の端々を掬って、商品を次々出してくる手際は素晴らしい。
接客担当の決め台詞は、
「うちの商品は、コピーはコピーでもスーパーコピーよ」
多分さ来年あたり彼は「エキストラ・スーパーコピー」と云う言葉を使っている事でしょう。
比較検討のしようが無いスーパーコピー商品をあれこれ探す事小一時間。
修ちゃんは女性用のバッグと小物入れなど数点、石本は二人の婿のためにブルガリ・
スーパーコピーのキーホルダーと名刺入れを本日のパフォーマンスのお礼に購入し、店を出ました。
二人連れは、早々に客を送り出し見送りもせず商品の整理に没頭。
小物商品には専用のカギ付きケースがあり、あれこれ広げた各ケースの施錠に大わらわ。
おまけに出入り口は三つのカギだし。

何とか大通りに出てタクシーに。
「英語解る」首を振る。
で、「釜山ヨットハーバー」どうやって伝えるよ。
取り敢えず、観光マップを広げハーバー辺りを指差すも又も首を横に振る運転手。
後ろから前川CP[石本さんイラストのヨットを指してみたら」と云う事でイラストを見せる。
「オー、ヨットゲンギダ」
通じた。無事帰れる。
で、少し時間がたって「ヨットゲンギダ」を検証。
ヨットはそのままでいい。ゲンギダを漢字に変換。
多分「競技場」だと思う。
とすると「競」がゲン、「技」はそのままギ、「場」がダ。
明くる日スーさんに確かめるとほぼ正解。
ただ、ダは、ラともダともバとダの間のような、日本人には発音し憎い、説明の難しい読み方だそう
ですが、石本は以後、「ラ」と「ダ」の間のような誤魔化し発音で通し、何とかなりました。
ヨット・ゲンギダに帰りつき、早速お洗濯。

神山班も帰って来たので「ホームライフ」へ今夜の食材探しに出かける事に。
岩井君と二人でヨットゲンギダ出発。


バッタ屋商売の補足です。
彼らの商売は欲しい商品の確認から始まります。
「何欲しいですか?」「バッグ」
続いて「予算いくら?」「1万円」
「これ1万です」(勿論値札無し)「でもこのポーチと一緒に買うと1万5千円でいいです」
と、予算を確認し、相応の商品を取り出し、セット販売を心がけるという絶対損をしない商売。

韓国経済発展の秘密は、この商売方法が真っ当なビジネスの世界にも
応用されているのではないでしょうか。
韓国の人の商売の上手さは、虐げられ続けた民族が生き抜く知恵を培って来た為でしょう。

韓国の脅威的な経済発達の姿は道路を歩きながらでも見つける事が出来ます。
「スクラップ&ビルド」はここ釜山の街でもあちこちに見受けられます。
驚くべきはこの地のスクラップ。
ホームライフへの途中歩道脇のビルの解体が行われていました。
日本なら、防御壁を作り、歩行者誘導員が道路の前後に赤白旗を持って立っていますが、一切居ません。
もっと驚くのは、壁のパネル剥離を作業員二人がクレーンに乗り作業。
クレーン操作は歩道に座っているもう一人が実施。
で、剥がし終ったパネルはそのまま下に投げ降ろす。
用心しながら歩く歩行者。道路に散乱するパネルの山。
日本では考えられない工事現場です。
歩行者の安全を無視すれば、日本の解体工事も今の三分の二の予算で出来るのではないでしょうか。
韓国の前に進もうとするエネルギーは歩行者の安全確保に未だ思いが至っていないようです。

ある日修ちゃんは、どうせ理解出来ないだろうと、クレーン操縦者(歩道に座り込み)に
「こりゃ、しっかり歩行者を誘導せー。ぼやっとしとったら駄目どー」と叱咤。
理解して貰えませんでした。


ホームライフへ買物の途中岩井君が道路に落ちていたベビー玩具を拾う。
前を歩く若いお母さんに近寄り「もしもし、これ貴方のですか?」
吃驚するほど可愛いお母さんでした。