パッちゃんと稲垣夫婦のホームステイ日記
愛子 記
2006年 2月 |
2月3日(金曜日)明日はお別れ・・・ 泣いても笑ってもパッちゃんは明日いよいよタイへ帰国する。 ところが居間や二階のパッちゃんの部屋には、沢山の荷物が散乱している。 宮島で買って来た10個もの日本人形、アルバム、クラスメートや先生、またいろんな方から頂いた おみやげや教科書等所狭しと置いてある。 やれやれ、どうやって持って帰るのだろう・・・。 4年前のホアンの事を思い出した。 ホアンの場合は、同じ時期で、2月3日の早朝広島駅発の電車だった。 前夜11時頃から荷物を詰め始めたが荷造りが完了した時はもう明け方の5時頃だった。 早朝のまだ薄暗い団地の中を、ホアンが「おかさん!最後だからバイクでひとまわりしよう!」と言った。 私はホアンの運転するバイクの後ろにつかまって、ホアンの毎日通った道を、バス停あたりまでぐるりと一周して帰った。 それが分かれの朝だった。思い出が懐かしく頭をよぎった。 結局私たちは一睡もせず、夜は白々と明け、そのまま新幹線の駅へと向かった。 パッちゃんの出発の時間は土曜の夕方なので、その点少し気分が楽である。 それでも朝寝坊のパッちゃんなので、どうしても今晩、荷物は詰め込んでおきたい。 パッちゃんは大小,ひとつづつの大きな旅行カバンとリュックサックを持ってきた。 これに何とか詰め込まなければならない。 今夜はいつものように夕食の後ゆっくり話しをしている暇はない。 パッちゃんをせかして、二階にある荷物を持って下りるように言う。 「これと、これと、これも・・・・・」と両手からこぼれ落ちんばかりの荷物を持って降りてきた。 「おい、おい、そんなに入るか?」と主人も心配顔。「とにかく詰め込んでみよう!!」 まず壊れてはいけない日本人形を一番大きなボストンバッグに並べて入れた。仕切にパッちゃんのティーシャツを使う。 何せパッちゃんがタイに買って帰らなければならない”おみやげリスト”を見ると、 ノートにびっしり50名から60名もの名前が書いてある。きっとタイでもパッちゃんは人気者なのかもしれない・・・・・・。 以前パッちゃんが言ったことがあった。 「みんな私の帰りを待ってるんじゃない、おみやげを待ってるのよ!!」と笑わせていた。 なるほどね〜!! パッちゃんが日本からどうしても持って帰りたかったおみやげがある。 それは『ピエトロドレッシング・洋服の糸くずや髪の毛を取るゴミ取りローラー』だった。 パッちゃんは女学院の制服がとても気に入っていて、家に帰ってもお風呂に入るまで、服を脱がないのだ。 時にはそのままストーブの前でうたたねしたりするので、パッちゃんの身体はいつもほこりもぐれだった。 そんな事は全然気にならない子だったが、これがいざ出かけて、人目につくとなると、そこはおしゃれなパッちゃん、 念入りに念入りに髪をとかしたり、とっかえひっかえ洋服を着てみては鏡の前に立つパッちゃんなのだが、 女学院の制服は紺色なので、白い糸くずやほこりが付くと良く目立つ。 私はある日、ふと思いついてパッちゃんの着ている服の糸くずや、髪の毛をゴミ掃除に使うローラーで取ってやった。 なので、洋服にくっついた髪の毛や、糸くずなどが粘着テープできれいに取り去られる。 最初は「おかあさん!私ゴミじゃない!!!」と言っていたが、きれいに効率よく取れるので、ついには病みつきになり 朝学校への出掛けには、「おかあさん、ゴミ、ゴミ!」と言い、私はローラーを持って走り、パッちゃんの身体を一周し、 ゴミ除去が終わると、「行って来まぁ〜す!」と出かけて行った。 そしてこのローラーが遂には、一番のお気に入りグッヅになり、 「タイには売ってない!おかあさんこれ持って帰りタイ!」と言った。 そんなわけで、ローラーと取替え用の粘着ロールを2ケ買って持たせてやった。 またピエトロドレッシングはあまり野菜を食べないパッちゃんが唯一このドレッシングをかけてやると 「美味しい!美味しい!」と言って食べるし、パッちゃんお気に入りのドレッシングである。 机の上に並べられた荷物は、あらかたボストンバッグにびっしりと詰め込んだが、 まだまだ入りきらない物が沢山残っている。 「おかあさん、私の洋服は全部置いて帰るよ」と言う。 主人も「いいよ、いいよ、後から送ってやるから」と言っている。 見回すと、詰め込んだ物より、残っている荷物の方が多い始末だ。 玄関にバッグを出し、帰りの支度は整った。時計は既に12時を廻っている。 さあ、寝よう!!3人で仲良く手を繋いで寝る。 「もう、こうして3人並んで寝ることもない、ハグもないよ!!どうするん!!」と悲しそうに言うパッちゃんだった。 |
2月4日(土曜日)別れ・・・ パッちゃんが我が家に来て230日あまり。 女の子っ気の無い我が家は、パッちゃんが来てくれたお陰で、パッと花が咲いたように明るくなった。 毎日パッちゃんと交わす会話は楽しく、夕食後毎日学校であった事、道中での面白かった事、悲しかった事 びっくりしたこと、あらゆることを一時間も二時間も、おもしろおかしく話してくれた。 時には、「パッちゃん!話さんといけん!!」と主人が苦言をぶっつけた事もあった。 パッちゃんは、見た目は子供みたいだが、頭の構造はずば抜けて良く、主人とも対等に話しをし、理解した。 人の考えている事は、ズバッと言い当てた。 頭の回転も良く、日本語も、友達や先生がびっくりされるほど早く上達した。 夕食後の食器洗いは、絶対自分の仕事とし、私が洗おうとすると、私の手を振り払って、洗わせてくれなかった。 何をしてやっても、必ず「おかあさん、ありがと、おとうさんありがとうございます」と言い、感謝の気持ちを表わした。 彼女の表現力はとても豊かで、そんな様子をずっと見ていた主人は、パッちゃんに小説家になることを勧めたほどだった。 物を書かせても、その表現力の豊さには、とても感心させられた。 我が家に来た頃は、少ないボキャブラリーで、ちゃんと言いたいことを伝える事が出来た。 まさにホアンの女版とも言うべきだったろうか。お陰で今日まで楽しい日々をおくらせてもらった。 私たちが留学生を迎える時、絶対心がけている事がある。 「その子を、自分の娘、息子として迎える事」である。 それは、私の次男がアメリカに留学したときホームステイした体験から、ホアンを我が家に受け入れることになったとき、 私にアドバイスした言葉だった。 「おかあさん、彼を下宿人として迎えるのか、稲垣の息子として迎えるのかを、ちゃんと心に決めておかんといけんよ」と言った。 次男も2、3度ホストファミリーを代わったので、その経験から言ってくれた言葉だった。 結果、ホアンも私たちの息子になってくれたし、私たちもずっとそう思ってきた。 パッちゃんの場合も、我が家に来るとき、娘が一人出来たと思い、とてもうれしかった。 ホストチェンジという事で、一抹の不安はあったけれど・・・・。 そして、今パッちゃんは完全に私たちの娘として振る舞い、私たちも娘として一緒に慶び、いとおしくも思い、 この日がほんとに分かれがたくなった。 パッちゃんは、タイへの帰国が間じかになり、「私は稲垣の娘だからね!!」と何度も何度も言った。 今日は私は12時半から留学生会館に出かけないといけない。 新幹線は夕方6時前なので、また帰ってくると告げ、主人とパッちゃんを置いて出かける。 留学生会館でパッちゃんは日本語教室に入らせてもらい、ここでもまた皆さんに大変可愛がってもらった。 先日はここの先生方と夕食を共にし、我が家にまで送って来て頂いた。 こちらの日本語の先生はタイにも3年位日本語教師として行っておられたので、パッちゃんとも意気投合し、 パッちゃんが我が家に来る前には、随分こちらの先生に助けていただいたようだ。 さて、私の用事を済ませ2時過ぎに我が家に戻ると、パッちゃんはジーパンにセーター、ジャケットに着替えて いつでも出かけられるよう身支度が整っていた。 お昼をまだ食べていないのでパッちゃんもお腹が空いたようで、パッちゃんの一番食べたいものを食べよう!と 主人が提案。すると、「焼肉が食べたい!」と言う。それではと、駅裏の「雲助」に足を運ぶ。 新幹線の時間までは充分時間があるので、ゆっくりと食事をした。 パッちゃんは駅に行く前に原爆ドームをもう一度見たいと言うので、お店を出ると、平和公園あたりをぐるりと 一周し、お別れを告げる。 女学院のパッちゃんのお友達がそろそろ来てくれいるはずだ。 新幹線口駐車場に車を置き、一足先にパッちゃんは構内に入って行った。 すぐにパッちゃんはお友達を見つけ一緒に歩いている。 自分の大きな荷物を運ぼうなんてさらさら思っていない様だ。 小さな私がヒーヒー言いながらトランクを引っ張っているとアアッー!!と気が付いたパッちゃん、 走りよって「おかあさん、ごめん!!」と手を貸してくれる。 そして、女学院のお友達も、パッちゃんに手を貸してくれ、一緒に2階改札口へと運んでくれた。 5時半になったらホームへ出ようと主人と話し、見送りに来てくれたクラスメート、そして留学生担当の向井先生、 クラス担任の吉田先生、パッちゃんが好きだった世界史の重松先生、科学の川田先生、ボランティアの方、LP、 そして、AFS支部長や堤さんご夫妻など、本当に沢山、沢山の方達がパッちゃんの見送りに来て下さった。 4年前のホアンの駅での見送りシーンのビデオを見せた事があり、我が家に来た頃、なかなかクラスメートが出来ず 悩んでいて、「パッちゃんがタイに帰るときは、駅に来てくれるのは、おとうさんとおかあさんとレイナさんだけだね」 と寂しそうな顔をしたのを思い出した。 ところがどうだろう、まさに、ホアンに勝るとも劣らない沢山の人々に見送りに来ていただいている。 パッちゃんの明るい性格、人柄によるのだろうと思う。帰国間近なパッちゃんに、クラスのお友達は 「ルーちゃん帰らないで!!」と泣きながら言ってもらったらしい。 新幹線発車時刻が近づいて来た。6時半になったらホームに出ようと思っていたので、皆さんに声を掛けて プラットホームに移動する。 ところが発車時間になっても全然電車は入って来ない。あたりがざわついていて、案内のアナウンスも良く聞こえない。 電光掲示板にも何も出ていない。主人が「ちょっと行って見てくる」とホームをうろうろしてやがて戻って来て言うには 風がとても強くて、何かビニールのようなものが線路かどこかにひっかかって、電車が遅れている・・・・とのこと。 どうやら30分くらいは遅れるらしい。今日はとても寒くて、見送りのみなさんも寒さでふるえている。 ぱっちゃんも友達とまたゆっくり別れを惜しんでいる。 そろそろ電車が入る5分前くらいになった時だった。 ぱっちゃんが「おかあさん、財布が無い!!!お父さんの車の座席に置いたまま忘れた!!!」と叫んだ。 ああ!!なんという事だ。 私はパっチャンのお弁当を買いに降りた主人にすぐに携帯で連絡を取る。 主人もあわてて、「じゃ!走って行って来るから!!」と言う。 プラットホームではすでにぱっちゃんの乗る電車が 入ってくるとアナウンスしている。もう間に合わない!! 一円も持たずではパッちゃんも不安だろうから財布から一万円を出して手渡そうとした。 パッちゃんは、一万円は多すぎると思ったか、「お母さんいらんよ!」と言う。 いいから持って行きなさいと言っても、私の手を拒んで受け取ろうとしない。 私の財布の中には千円札が一枚しかない。それを見て堤さんが、さっと2000円貸して下さった。 それを受け取り、私の千円とで、三千円をぱっちゃんに渡すと、「お母さんありがとう!!」」と 言いながらホームに入ってきた電車に乗り込んだ。 パッちゃんの財布を取りに行った主人は、もう間に合いそうにない。 ところがホアンの友達であった由也君が気を利かせて途中まで行ってくれていた。 ゼイゼイ!と息せき切って走りこんで来た主人は財布を由也君にバトンタッチする。 そして由也君は既に発車のベルがなって今にも扉がしまりそうなところへ走りこんで来た。 そしてぱっちゃんに財布を無事手渡すことに成功!! ぱっちゃんは「お母さんありがとう!!」と言って3000円を返してくれた。 扉はしまった。そこへぱっちゃんのお弁当を持った主人が駆け込んで来た。 「ああ!!お弁当が!!」 ゆっくり発車して行く電車の窓が開いていて、車掌さんがこちらを向いていた。 それを見た主人、とっさに車掌さんにぱっちゃんのお弁当をその窓から投げ入れ、 「あの子に渡して下さい!!!」と叫んだ。 多分分かってもらっただろうと、主人はへなへなとその場に立ち尽くした。 「やれやれ、最後までお騒がせパッちゃんじゃのう!!!!」と。 結局私たちは涙、涙のお別れの愁嘆場どころでなく、土壇場となってしまった。 一息ついてパッちゃんを見送って下さった先生や、AFSスタッフ、LP、お友達にお礼を言う。 パッちゃんと仲の良かったお友達は、立ち尽くしいつまでもいつまでも泣いていた。 先生がたがなだめて下さり、肩を落してホームを後にしていた。 なかなか学校の先生までお見送りに来て下さるという事はないのに、ぱっちゃんは幸せ者だ。 沢山の先生、お友達にこうして見送って、別れを惜しんで頂いた。 出発間際まで、お土産も頂いていた。 あっという間の10ヶ月だったけれど、ぱっちゃんの一生にとって絶対忘れられない日本の生活だったことだろう。 「おかあさん、絶対また帰って来るからね」という言葉を残して、パッちゃんは帰って行った。 ホアンも同じ事を行っていたが、いまだに来てくれていないが・・・。 夕方家に帰ると、留守番電話にぱっちゃんが何度も何度も伝言を残してくれていた。 結局パッちゃんは7:20に広島を出発し、大阪で他の留学生と合流。バスで東京に向かった。 東京は翌朝着いたけれど、バンコクへの飛行機は夕方の便なので、ぱっちゃんは成田で退屈な時間を過ごしたようだ。 そして、なんども電話をくれたみたいだった。 結局パッちゃんの電話をとれたのは、5日の夕方バンコクへ飛び立つ寸前であった。 悲しそうな声で、「お父さん、お母さんさよなら!!タイに帰ったら電話するね・・・」と言って日本を後にした。 パッちゃんもきっとここでの生活を忘れないと思うが、私たちにとってもとても印象深い女の子であった。 ホアンは我が家の息子同然となったが、パッちゃんもまた我が家の娘同様となった。 タイにもパッちゃんを訪ねて行かなければならないなぁ〜!!! |