少しずつ書くので気長に見てね! 


2001年1月2日
朝4時には目がさめた。トイレに行き空を見上げると北斗七星がまじかに見えた。
すり鉢の底から上を見るので、広い空を見るという訳にはいかない。
寒いので早々にテントに入り羽毛のシェラフを2枚重ねたものに入る。
下は5cm位のマットを敷いてくれているので全然寒くない。ホッカイロも貼って寝たので
夜中暑くて毛糸の靴下やズボンを脱いで寝た。寝着かれないでいると、5時過ぎには皆さん
ボツボツ起き出している様である。Sさんが「山の頂上が輝き出すよ」と言っているので
起き出して見る。東京のHさんが寒い中スケッチし、色づけまでしている。
どんな写真より素晴らしい記念になるだろうなあー。皆さんと同じ行動の中で良くスケッチ出来る
心の余裕を保てるものと感心してしまう。
谷向こうの山の頂きから茜色に染まり出した。雪で白い頂きは、太陽光線の何に同調するのか
えもいわれぬ茜色である。写真で撮ると赤黄金色であった。デジタルビデオの静止画はこんな
感じであった。しかし、谷底から雲が湧きあがり、すぐに見えなくなり、そうこうしている内に山が
太陽にさらされると茜色は無くなり、昼間の太陽光になってしまった。
一瞬の輝きであった。今夜もここに泊まるので明朝乞う!御期待である。

   少しだけ美しさを見せてくれた!   Hさんが寒い中スケッチしている。美しい水彩画だ!

高度順応したせいか、朝食はおいしく食べた。
本日は500mばかり登ってエベレストビューホテル(3880m)でお茶でも飲みながらサガルマータ
堪能する行程である。夕方はクムジュンを経てナムチェバザールに帰る予定。
東京から参加のHさん、高山病でダウン!「皆さんに迷惑かけると申し訳ない」との事で
本日は別行動でゆっくりとエベレストビューホテルだけに行くらしい。
最長老の72歳のSさんも付き合う事になった。
Sさんはネパールにはまって、もう13回も来ているらしい。
すり鉢の底から這い上がるように、ジグザグ道をあえぎながら一時間強ですり鉢の淵に届いた。
ダラダラ坂を30分ばかり行くと、シャンボチェ飛行場があった。ここは、ヘリコプター専用だそうだ。
以前、飛行機も飛んでいたが、事故があってからヘリ専用になったらしい。
小一時間程歩くとエベレストビューホテル(3880m)に到着。
ホテルのオープンカフェテラスでティータイム。椅子に座ってお茶を飲みながらサガルマータを堪能する。
右手前に槍のようにそそり立つアムダムラムの偉容が美しい。サガルマータは遥か向こうにあるので
アムダムラムより低く見える。一生に一度は世界最高峰のサガルマータを見たいという思いは果たせた.
もう何度も見てしまったので、さほどの感激は無かった。
唯、遥か世界の屋根、ヒマラヤ山脈まで来たものだなあ〜!という感慨は湧き上がって来た。

   エベレストビューホテルのカフェテラスにて   エベレストビューホテルのカフェテラスにて

                   向って左がローツェ。右の尖がっているのがアムダムラム

私達のテーブルの前に西欧人男女2名が「May I ?]と来た。
私が「プリーズ!」と言うと対面の椅子に座った。30過ぎのペアーだった。スペインから来たらしい。
トルコのイスタンブールで乗り換え一日以上かけてのフライトでカトマンズに到着した様である。
サガルマータのベースキャンプ(5200m)位まで行く様であった。
嫁さん、スペインと聞いてパラグライダーの世界選手権も行われた事だしと思って
パラの話をしたが、よく知らない様であった。
選手権の行われた地名(ヒエドラヒタ)を言おうとしたが思い出せない!。
話が腰砕けとなってしまった。男の方が「日本一の高い山は?」と聞いてきたので
「マウント フジ」と答えたが知らないらしい。「高度は?」と聞いてきたので「3776m」と答えた。
スペインの最高峰より少し勝ったみたい。

   スペインからきた二人   シェルパと三人連れだった

   あの村がタンボチェで、私(シェルパ)の住んでる村です。   全員で記念写真。雪煙を吐いているのがサガルマータ

   サガルマータを背景に   サガルマータを背景に

     向って左の雪煙を吐いているがサガルマータ(エベレスト)。右がローツェ(8511)第4位

「エベレストビューホテル」だけで売っているという記念品を売店に見に行く。
ショーケース一個だけのカウンターであった。絵はがき(100ルピー)バッチ(500ルピー)
ネクタイピン(450ルピー)を買った。
宝石が並べてあって400と書いてある。まがい物でもいいかな?
と聞くと400ドルだった。記号が老眼でよく見えなかった。早々に納めてもらう。
ホテルを出かけに、高山病にかかり別行動でこちらに向かったHさんとSさんに出会った。
彼らは直登して来て、私達に追いついた。エベレストビューホテルでゆっくりしてそのままナムチェに
帰る予定である。後から聞いた話によると、シャンボチェ飛行場にヘリコプターで来た人がいっぺんに
高山病になり、2人に手を引かれ、1人に後を押して貰いエベレストビューボテルへ青息吐息で上がって
行ったそうである。高山病予防には素人には、ルクラから出発が無難の様である。
エベレストビューホテルを出てクムジュン(3790m)に下る。
ここで昼食をとり、現地の小学校・中学校(ヒラリースクール)を見に行くが学校は休み。


   クムジュンのスツーバ   ヒラリースクール

イエティ(雪男)の頭の皮があるとおいうゴンパに見学に行く。
日本のお寺の三分の一位の大きさ。靴を脱いで板の間に座る。お布施は正面の机の上に
20ルピー程置く。堂守りのあやしげな婆さんが何やら言っている。正面には見慣れた仏様
(大日如来?)が鎮座ましますので、皆さん思い思いに手を合わせ「ナミアムダブツ ナミアム・・・」
いつイエティの頭の皮を見せてくれるのかと待っていると、お布施は終りと見た婆さん、私達の
後方のスチールBoxのカギを開け始める。ここにも英語でお布施がいる様な事を書いてあるが
無視して皆カメラを構える。
確かに毛の長い毛皮が山形になって台の上に乗っていた。そう言えば何年か前にテレビで見た事がある。
頭のてっぺんが妙にとんがっているので気が付いた。
お寺を出る時、高さ2m以上のマニ車をよいしょ!と回した。なにか御利益あるのかな?

   大日如来??   堂守りのあやしげな婆さん

   イエティの頭???   ご寄付を?

村の人たちが30人ばかりならんで、水汲みの順番を待っていた。
容器はポリタンクであった。村には地上に直径3mばかりのパラボラアンテラが設置してあった。
こんなヒマラヤ山脈の山岳地帯で水道は家庭に引かれていない生活でも、I・Tだけは整備されつつある。
人間の欲求は水道よりもI・Tなのか・・・。情報に置いて行かれる事が人間にとってすでに
おそろしい事になっているのか?こんな山奥でも!!いや こんな山奥だからこそ!!なんだろうなー。
私の年代では、この世の中のI/T革命にどこまでついて行けるやら?である。
しかしうっかりしていると、人の話の輪や商売の輪や世間の輪(リンク)からはずれると
生きて行けない時期が遠からず来るのを予感する。
そうそう東京から参加した4名のグループKさんがヒラリースクールの生徒達にノートや鉛筆を
ここまでかついて来られた。子供達の喜ぶ顔を見たくて、自分達の背で持って来られたのに
学校はお休みであった。一緒に来たシェルパの学校に寄付してくれと言付けていた。
彼らの村はあと一日上がったところにあるタンボチェ村である。
このネパールへは日本人達が協力して村村に学校を寄付している様だ。300万円位で一つ学校が
建つらしい。村の公共事業にもなるし、村人達からも喜ばれている。
クムジュンを後にし200mばかり登ると峠に出た。うっすらと雪化粧でみぞれが降っている。
寒いので休息も早々にして下り始める。シャンボチェ空港に出て、ナムチェバザールのすり鉢の淵を
廻って降り始める。上から見ると本当にすり鉢の様なので、この傾斜面からは、パラグライダーで
どこからでもテイクオフ出来る。昨日から風見していたが、朝一番は吹き降ろしの風が吹いている。
AP10時頃までは無風になり、それからは3〜5mくらいのテイクオフには最高の風が斜面を
駆け上がってくる
。そういえば先ほどの「エベレストビューホテル」ではカラスたちがソアリングを
していたなあ〜!!。

唯ここからテイクオフしても、ランディング場所が無い。斜面の畑にサイドフォローランディングしかない。
谷底に降ろすと激流に呑まれるか、助かってもあがってくるのに、一週間もかかりそうである。
数年前にインドのヒマラヤ山脈をパラグライダーで飛んだイギリス人がいたが、本当に命知らずの
連中である。鷲がパラグライダーに乗ってきたり、ねずみにラインをかじられたり、嵐に追いかけられたり
シンク帯で谷底に落ちそうになったり、本当に命知らずの連中である。
急な斜面をひざが笑わぬ様に一歩一歩踏みしめて降りて行く。
途中、親子のポーターとすれ違った。母親に10歳位の男の子と女の子である。
皆マキを背負っている。子供達はしんどいらしく休み休み登っている。
「エベレストビューホテル」マキを運んでいるようだ。この子達のマキの量は一つのストーブで一晩
もたないだろうなぁーと思っていると何だか悲しくなった。

   上から見たナムチェバザールの集落   峠のスツーバ

ナムチェバザールの集落を見ると広場にバザール(市場)がたっている様だ。
聞くとチベット人が来て品物を並べている様だ。そうなんです!彼らはヒマラヤ山脈を足で越えて
来るのである。牛などは持っていない。中国製の衣料品が圧倒的に多かった。あとは靴や日用品。
どこのロッジでも中国製のマホービンを使っていた。
中国製品は相当に安くて、人気がある様であるい。しかし中国で製造されたものが、チベットの山奥まで
運ばれ、人の背でヒマラヤ山脈を越えて来てもまだ安いなんて!!ネパールには工業製品は
余り無いらしい。インドから入ってくるのが主流。
水が自然と低い方に流れて行く様に、需要のあるところに商品が流れて行くのは、シルクロード時代から
あたりまえの事の様である。
あたりまえとはいえ、生命をかけたヒマラヤ越えである。
人の経済活動のすさまじさというか、商売の原点を見た様な気がした。
ネパールから何を仕入れて帰るのか?聞き忘れた。
市場を見るには時間が遅くなってしまった。翌朝、広場を通ったらビニールシート一枚でテント屋根を
作って野営していた。よく凍死しない事だと感心する。

   チベットの行商人たちのテント   チベットの行商人

PM5:30には昨日につづきオンチュウさんのロッジで夕食となる。うすいパン・ご飯・カレー・ギョーザ
キャベツ・カリフラワー等出たが、そろそろ日本恋しくて沢庵、漬物などが人気。日本茶ばかりの注文。
夕食後、ストーブを囲んで話が弾む。
ツアーリーダーの田久和さんは若い頃から世界の冒険者であったらしい。
中国には6年間居たそうである。中国語はべらべらである。「何か変わった旅行は?」と聞くと
ギリシャ正教の本山に6日間逗留した時・・・との答えであった。
山のいたる所にお寺があり、入域証があれば、どのお寺でも泊めて食べさせてくれる。
完全自給自足の世界で、まるで異次元の様であったとの事。入域証は外国人にはほとんど発給しない
との事。このネパールでも彷徨したそうだ。
アルパインツアーサービス社に就職したので既に60カ国は歩いた。パスポートは2年で一杯になるそうだ。
ほとんどトレッキングなので、観光地はよく知らないとの事。
世界中お客様の要望あれば案内しますとの事だった。
南極だろうが、北極だろうが「サガルマータ山頂」まで?
登頂する能力あれば一人300万円でサポート
出来るらしい。
宇宙ステーションへ62歳(?)のアメリカ人が23億円払って今年6日間の宇宙の旅
するらしいがそれに比べると安いものだ・・・。今後は中国のトレッキングも面白くなるだろうとの事だった。
中国の話がでて同行者Nさんの話が私の心を打った。
私と同い年のNさんは敗戦で重慶から命からがら日本に引き揚げてこられたようだ。
この旅行に出る前にNHKで「大地の子」が再放送されていたのを、夜遅くまで連夜見てきたのであった。
大地の子で放映されたシーンの様な生やさしいものでは無かった様だ。生きんが為の人間の醜さ、恐ろしさ
などまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった様だ。本当に恐ろしい(精神的に)目にあった人は多くを語らない。
Nさんは当時1歳。お母さんは19歳であったので、お互い生命力が強く、生命からがら日本に引き揚げて
来られた様であった。
舞鶴港で宿泊した部屋の状況をはっきりと覚えていて、後年この事を母親に話したら間違いなかったとの事。
「1歳の赤ちゃんが記憶している訳ないでしょう!!?」と言ったのだが、状況は間違い無かった様である。
人の臨死体験だったので、赤ちゃんにも記憶が残ったのであろうか?
いづれにしても不思議な話である。母親にこの重慶を見せてあげたいと言っておられた。
眼鏡の奥には涙が光っていた。