パッちゃんと稲垣夫婦のホームステイ日記
愛子 記
2006年 1月 |
1月 1日(日月曜日) 元旦 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 いよいよ2006年の幕開けである。パッチャンは日本でのお正月を元気に迎えた。 大晦日は長男の友人が西条から来た。彼は大学時代柔道部に属しており、現在も東広島に在住し、 学校の先生である。体格はすばらしくよく、何を出しても、牛の如くパクパクと美味しそうに食べてくれた。 私たちも一緒に賑やかな大晦日の食卓を囲んだ。 世間では「紅白歌合戦」を見ながらの年越しが大半かもしれないが、我が家では、ぱっちゃんが、 こんな可愛い雰囲気の子に似合わずK−1が大好き! 他の局でやっているK−1格闘技を主人と長男とで、テレビにかじりついた見ていた。 やがて、除夜の鐘の年越しそばを食べ、良い初夢が見られますようにと、布団にもぐりこんだ。 元旦はお天気もよく、みんなゆっくりと、8時半ころ起床。 わたしは一足先に起き出し、おせち料理、黒豆、お雑煮など新年らしく支度をする。 やがて目ざとい長男も起きてくる。ぱっちゃんも起こしにあがると、ちゃんと心得てか、さっさと起きて食卓につく。 「あけましておめでとうございます!」とまず新年のご挨拶。 乾杯は頂き物の高級ワインを開ける。日本のお正月もタイのお正月もそんなに違いはないらしいが、 タイでは、鶏の丸焼きを食べると言っていた。 パッチャンもお雑煮のお餅を一つ食べた。でもお変わりは無さそうだ。 私はかねてから考えていた事があった。 パッチャンに日本の着物を着せてやろう・・・と。それも私が結婚式の時お色直しに着た振袖である。 もう、30年も箪笥の中にしまい込んである。 今まで1、2度は虫干しで風を通したけれど、さてさてどんなだろうと去年の暮れ出してみた。 これは父が私が嫁ぐ時に見立ててくれた晴れ着なのだが、今見ても刺繍もいたんではいないし、 どうやらぱっちゃんに着せてやれそうだ。 着物の朱赤にグリーンの帯で、ぱっちゃんによく似合いそうだ。 近くの呉服屋さんの奥さんが友達なので、午後から着付けをお願いしておいた。 パッチャンは「信じられない!!おかあさんありがとう!!!」と顔に満面の笑みを浮かべて喜んでくれた。 我が家で待っていた主人と長男は、ぱっちゃんのあでやかな着物姿に思わず顔もゆるみ、 「かわいい!!!パッチャン、よく似合うね〜!!」と感激している。 「さあ、じゃー初詣に行こう!!」とみんなで広島市内の神社へ新年祈願に詣でた。 出掛けに近所の方へも、ぱっちゃんを見て頂こうと、年始挨拶に廻る。 近所の方々もぱっちゃんの着物姿にびっくり!! おかげで、お年玉も頂いて、ほくほく顔のぱっちゃんであった。 護国神社へ参ると、延々お参りの人々の行列。もう時間も午後の遅い時間である。 まっていると、1時間くらいはかかるという。 私たちは諦めて駅の近くの「にきつ神社」にお参りする。 そのまま帰るのもなんだかもったいないので、市内の平和大通りのイルミネーションがきれいなので しばらくそこで時間を費やす。 私の母は今沼田の方にある老人施設に入居している。一次外泊も可能であったが、寒いなかで、 風を引かせては大変と田舎へは連れて帰らなかった。 長男もまだその施設に行った事がなかったので連れて行く事にした。 おばあちゃん大好きのパッチャンは大喜び。 今日はこの着物すがたを見せてやれるので、私もなんだかうれしい。 まだ出来て新しい施設なので、まるでホテルのようだと長男。 母はこの施設に入ってから、顔も穏やかになり、ヘルパーの方によく面倒みていただいて、私も今は少しほっとしている。 パッチャンは「おばあちゃん、覚えてる?ぱっちゃんだよ!」と優しく母に呼びかける。 母とひとしきり紙風船で遊んだ。 パッチャンの着物すがたを見て、施設の方、ヘルパーさんも「可愛いね!!かわいらしいね!」と、 皆さん思わぬ訪問客に喜んで頂いた。 こうして、元旦一日が暮れた。 我が家に帰ったパッチャンは「まだ脱ぎたくな〜い!」と、着物をすっかり気に入ってくれたようだ。 神社におまいりしても、決して見劣りしないあでやかなパッチャンであった。 「おかあさん、私が結婚するとき、この着物貸して下さい!!」と頼むパッチャンであった。 |
1月 4日(水曜日)「ヤマトミュージアムへ行く」 1月2日に私たち4人で、ダイヤモンドシティのバルト11の映画に行った。 何を見ようか・・・とウロウロして、主人の提案で「男たちのやまと」を見た。 この映画は今から60前の1945年、水上特攻隊として、若い命を海に散らした 戦艦大和の乗組員達の壮絶な物語である。 16歳17歳という少年達がいやおうなしに、少年兵として駆り出され、 家族、母を思い、兄弟を思い若い命を散らしていった。 その苦悩、悲しみ、彼らの生き様が壮大なスケールで描かれている。 もし、それが我が子だったら・・・・と思うと万感胸に迫るものがあり 涙があふれてきた。ぱっちゃんもこの映画を見て、「日本語は全部は分からないけど、 すっごい感動した!!!日本人ってすごい!!」と言い続けていた。 パッチャンのあまりの感動ぶりに、呉の大和記念館に行ってみようという事になった。 ここには、実際に戦艦大和の乗組員であった人達の生き残りの方がたの生々しい証言。 そして夫を、息子を送り出す母、妻の苦悩などまた、家族に当てた遺書など、 見ていると再び涙があふれ万感迫るものがある。 ゆっくりみていると数時間はかかるが、この日も沢山の来館の人達があった。 特に若い人達が沢山来ていた事はうれしい気がした。 パッチャンは、「広島の人は「男たちの大和」を見んといけん!!」と声を荒げていっていた。 大和ミュージアムを見終わった時、パッチャンは「お父さん、もう一回見に行こう!!お願い!!」とせがむ。 もう少し背景もわかったし、もう一回見たい!!と何度も何度も懇願するぱっちゃんに、主人も根負け。 じゃー行こうか。 ほぼ日も暮れかけてきたが、パッチャンが男たちの大和で何をどう感激したか、聞きたいものだと思いながら もう一度映画館に足を運ぶ。 |
1月 12日(木曜日)広島市長 表敬訪問 今日は夕方から広島市長を表敬訪問する。 これはAFS年間派遣プログラムを終えて帰国の報告を兼ねての、秋葉広島市長を表敬訪問する もので、パッチャン他、キャロラインちゃんや西条にいるピンちゃんなど広島支部の留学生全員参加行事である。 パッチャンもクラスを早めに切り上げて4時から20分間の短い時間だが、市役所に参集。 我が家に帰ってからどんな様子だったかを聞いたところ、だれもあまり言わなかったので、自分が 先日見た「男たちの大和」の映画について語ったそうである。 きっとこれには、さすがの市長もびっくりされたのではなかろうかと、察せられる。 ぱっちゃんは、自分の住む”ペッチャブリ”のスピーチコンテストで優勝しただけあって、話しぶりはとても上手で 人を引き付けるものをもっている。 席を共にした、留学生の友達の中にも、「僕も見たよ!」と言う子がいて、ぱっちゃんも嬉しかったらしい。 私自身も結局2回この映画を見たけれども、見るたびに、涙があふれて止まらなかった。 今時のお笑いだけの娯楽映画を見るだけでなく、私たちの小さい頃に、夢多き17歳、18歳の若者が 否応なく戦争に駆り出され、若き命を南の海に散らしたという事実を決して忘れてはならないし、命の尊さを この映画を通して知って欲しいと思う。 パッチャンがこれほどまでに「男たちの大和」に感銘を受けるとは驚きだったが、反面うれしい事だった。 記憶力の良いパッチャンは、映画の中のセリフ 「あんた!死んだらいけん!!」などと真似してみせる。 もしこのホームページを見て行ってみようかな?と思われる方は、どうかハンカチをお忘れなく! お出かけ下さい。 |
1月 14日(土曜日) 今日は最後のAFSミーティングがアステールプラザで行われる。 私は語学学校があるので、代わりに珍しく主人がパッチャンと一緒に出かける事になった。 槙原支部長初め、堤さんや、LPの方、また将来ホストファミリーを希望する家庭や、留学を予定している 学生の参加もあり、十数名が参集した。 キャロラインちゃんもパッチャンも帰国を目の前にして、これまでの日本の生活、いろいろな経験など 語ったらしい。 午後はポットラックパーティで、持ち寄りのご馳走をみんなで食べる。 私はパッちゃんお気に入りの、大学芋を数パック作って持たした。 これが何だか評判良かったらしく、「頂いて帰っていいですか?」と全部売れてしまったらしい。 良かった!! |
1月 15日(日曜日)寒曳スキー場で初スキーを体験!! タイは夏と雨季の2つの季節をもつ。パッチャンは生まれてこの方まだ雪というものを見たことがなかった。 日本に来て12月の初雪を見たときは、寒い!といってきっとびびってしまうと思っていたが、 「ぱっちゃん雪が降ってるよ!!」と言うと、目を覚まし、二階から転げるように降りてきて、おおはしゃぎだった。 私たちが寒いでしょう!!というのも聞かず、庭のあちらこちらで雪景色の写真を撮りまくっていた。 あの程度の雪で、あれだけおおはしゃぎするんだから、スキー場の雪を見たら腰抜かすんじゃない?と主人と話す。 そんなわけで、この冬一度はスキー場に連れて行ってやりたいものだと思っていた。 幸い例年になく雪の多い年となった。すでに一月半ばなので、早く連れて行かないと、帰国を前に忙しくなるばかりと思い 今日は一時間あまりで行ける寒曳スキー場に行くことにした。 私と背丈が同じ様に小さいパッチャンに私のスキーウエアーを着せてみるとぴったりだ。 帽子、セーター、ズボン、厚手のソックス、手袋、すべてOKだ。 朝7時に我が家を出発し、スキー場に向かう。前日に芸北スキー場でなだれがあったと報道していた。 ここ2、3日気温が高かったせいだろう。芸北のスキーヤーが寒曳の方へ流れてくるかもしれないので、多いかもしれないと 主人は心配した。一時間あまりで到着。駐車場には車がまだまばらだ。「思ったより少ないぞ」と主人。 ロッジでスキー道具をみんなで借りていざゲレンデへ。 長いスキー板を足に付けて雪面に立つのは、初めての人だと絶対難しいと思う。 まず、スキーベテランの主人が、人の少ない練習バーンで、まず板の付け方、ゲレンデ斜面の昇り方など教える。 斜面に直角に立ちカニの横ばいのように一歩一歩足を移動させる。 私がやってみせると、パッチャンも恐る恐る雪面に立ち、同じ様にやっている。 少し直角があまくなると、ずるずると下に下ってしまう。 しばらく練習していたが、はるか上のほうを見やると、ベテランのスキーヤーがかっこ良く、スイスイと滑って降りてくる。 そんな彼らの姿を見て、頭の中はすっかり格好良く滑る自分のイメージが出来上がっていて、いっこうに主人の教えることを 素直に聞かない。でも、いざ足を動かそうとすると、長いスキー板に足がもつれ、思うように昇れない、進まない。 何度も何度もスッテンコロリンを繰り返す。 転びながらも何とか斜面に直角にカニの横ばいを繰り返し、何とか上の方まで昇る事が出来た。 そして、勢い良く下まで滑って行くが、止まることの出来ないパッチャンは再びステン!! それを繰り返していたが、運動神経の良いパッちゃんは、いつの程にか真っ直ぐに滑っていく。 そして、しきりにラージヒルの方へ行きたがる。 それでは!と主人、リフトの回数券を買い、上に上がることになった。 リフトを降りると、係員の人が、「全くの素人さんは、もうひとつ上のゲレンデで滑った方が安全ですよー!」と 見るからに下手そうな私たちに声をかけて来た。 そして、リフトにもう一回乗り、更に上に。 一番上のゲレンデは、斜面が緩やかで、練習には丁度良い。 再び、主人はパッちゃんに、手取り足取り教える。私もボーゲンでしか滑れないが、少し行っては待ち、少し行っては待ち 何とか下のリフトまで降りた。 何度かリフトの上がり降りを繰り返すこと1時間。昼ごはんをロッジで食べて、再び挑戦。 2時間後位には、すでにパッチャン一人で、リフトに乗り、滑り降りて来るまでに上達。 滑り降りても止まる事が出来ない。それでもゲレンデをものの見事に、髪をなびかせシューマッハで滑り降りるのである。 タイのお父さんが、「娘は本当は男に生まれてくれば良かった」と言われたそうだが、なるほどと納得出来る。 あの細い体だが、結構力はあり、直滑降を、ものともせず、まっしぐらに滑って降りるのである。それを見た主人 「まったく、無謀娘じゃわい!!!」と。 何度か上がり降りして疲れた私たちは、「パッチャン一人で滑っておいで」と券を渡す。 スキー場には、パトロールの人が何人か居て、ゲレンデを巡回している。 パッチャンはどこに居ても存在感があるのか、巡回のおじさんがパッチャンをずっと見ておられて、「だいぶ上達したね〜」と 声を掛けておられた。その後、ロッジでストーブで温まっている私たちのところに来て、「上手ですね〜」と感心されていた。 「はぁ、上手というか・・・無謀と言うか・・・・」と返答に困る主人であった。 今日は夕方同期の集まりがある主人、早めにスキー場を後にする。 だいぶ上手に滑れるようになったパッちゃんはもう少し滑りたそうだったが、「もう一回いつか来ようね」のことばに納得、 我が家に向かう。滑りつかれたか、家に着くまで良く眠っていた。 |
1月 29日(日曜日) 今日はパッチャンと過ごす最後の日曜日。 主人は「29日はパッチャンの希望を何でも聞いてあげるから、何をするか考えておきなさい」と言ってあった。 パッちゃんが頭の中で考えた事は、朝5時に起きて、朝ごはんを食べ、@老人施設に入っている母にお別れに行く。 A3人で一緒にプリクラに行く。Bダイヤモンドシティーのバルト11でもう一度「男たちの大和」を見る。C一緒に買い物をする。 D宮島にもう一度行く。E原爆ドームに行く。F焼肉を食べに行く。G本通を3人で歩く。Hタイ料理を一緒に食べる。 Iマリーナホップに行く。等10項目位やりたい事をしゃべっていた。 よしよし、なんでも聞いてやると言った主人だったが、いざ日曜の朝になると、 ホアンと同じで,寝坊のパッちゃんは起きて来ない。 二階に起こしに上がり、「5時に起きるって言ったのは誰?もう11時だよ!!」とたたき起こす。 それでも「おかあさん、あと5分。ね!あと5分で起きるけん!」と,たたもうとする毛布にしがみつく。 もうこれ以上寝せておくわけにはいかないと、無理矢理ふとんをはがしてしまう。 とうとう観念して、、しぶしぶ下に降りるパッちゃんだったが、下でもまたストーブの前に横になってしまった。 ついに、おとうさんに怒られてしまった。「パッチャン!起きろ!!いっぱいやりたい事あるんだろ!」と言うと さすが、おとうさんには逆らえないか、風呂に行きシャワーを浴びしゃきっとして戻ってくる。 朝ごはんを早々に食べ、出かける段取りをするが、すでにお昼である。予定は大幅に狂った。 再び、パッちゃんと話し合いだ。 結局パッちゃんの要望は、@母の所へ行く事 A映画を見て Bタイ料理を一緒に食べると言う3項目に削られた。 まず、ダイヤモンドシティのバルト11に行く。 時間的に「男たちの大和」は中途半端で、代わりに「博士の愛した数式」が丁度見れたので、それに決定。 ポップコーンとコーラ、ポテトスティックを買い、映画館に入る。 この映画は主人公である博士が80分間しか物事を記憶出来ないという事を軸にした映画で、博士のお世話に来た 家政婦の女性とその息子との関わりを描いた作品であった。 パッチャンは頭がよいので数学もで良く分かるが、この映画にも数学に関する公式、定理など出てきたので、 パッチャンもそこそこ理解して楽しんだようである。 映画を終えて、今度は沼田の母の居る施設に向かった。 お年寄りや、子供大好きのパッちゃんは、私の母に会う事をいつも楽しみにしていてくれる。 まったくパッちゃんの事を覚えてはいないのに・・・・。 施設に行くと、母は、以前手術した股関節のところが数日前にずれたとかで、病院に連れて行ったところ 2週間安静にしていなければならないとの診断であったと介護師さんの説明を受けた。 それでも、サロンでハーモニカを吹き、歌っている他の入居者の方々について、ベッドで横になったまま 手をたたいて口を動かしながら歌っているみたいだった。 この施設のヘルパーの方々はとても親切で、一生懸命介護にあたっておられるのには感心する。 パッちゃんは、自分のバッグからほほ紅を出し、母のほっぺをほんのりとピンクに化粧してやった。 「おばあちゃん、きれいよ!!」と。そして、自分の荒れ止めのリップスティックも塗ってやっている。 母は少しテレながらも、ニコニコ笑っていた。「おばあちゃん、私間もなくタイに帰るよ」と母の手を握り締め言った。 母は「はは!!??」全く理解は出来ていない。 「おばあちゃん、元気でね!また帰って来るよ」と母が分からなくても一生懸命話しかけてやっていた。 ほんとにこのパッちゃんの心には、頭の下がる思いがした。 そしていつものように、「おばあちゃん、チューだよ!」と言いながら、母のほっぺにお別れのキッスをするパッチャン。 自分がまた日本に帰ってきたときは、おばあちゃんはもう居ないかもしれないという、 寂しい思いがパッチャンの頭の中をよぎったようで、とても悲しそうな顔だった。 さて、施設をあとにすると、すでに時計は5時を廻っていた。 残すパッちゃんの要望は「タイ料理」である。パッチャンは前に一度女学院のボランティアの方と食べに行ったらしく 名前は「サワディ」というのだが、場所をはっきり覚えていない。 記憶をたどって本通りを、少し歩きながら思い出すからと言う。 20分くらい歩いたが、どうも思い出さない。歩いていると交番があった。 「あ、あそこで聞こう!!」 「すみませんタイ料理のお店で、サワディというのはどこですか?」と聞くと 交番の警察官の方は、電話帳ですぐに調べて下さり、そこからほんの100mくらい行った所であった。 近くまで来ると、もうパッチャンにはすぐわかり、「あ、ここ、ここ!!」とさっさっと二階に上がって行く。 小さなタイレストランで、お父さん、お母さん、そして二人の娘さんが手伝ってのお店であった。 メニューはさっぱり分からないので、パッチャンにお任せでオーダーさせる。 トムヤムクンはオーダーに入れた。他にぱっちゃんお勧めの品を何品か注文する。 タイの料理は激辛のようだが、やはり辛さに慣れていない日本人には、それなりに調節はしてあるようだ。 でもトムヤムクンは、我が家でもパッチャンのお母さんが送ってくださったルー(素)を使って何度か作ったが やはりこのレストランの味は格別だった。 さすが世界3大スープのひとつに数えられるだけはあるな〜と思った。 タイ料理も頂いたし、パッちゃんの希望はほぼ叶えられた。本通りを歩きながら、「あ!おとうさん、プリクラ行こ!!」と めざとくプリクラのお店を見つけると、私たちを引っ張り込む。 もう今日しか無い!とせがむパッちゃんに、主人もしぶしぶ願いを聞いてやることに。 恐る恐る入る私たちに、勝手知ったるプリクラ店、早足でどんどん2階、3階へと上がって行く。 時間ももう遅いので、女学生達の姿はまばら。「おかあさん、おとうさん、レンズの前で笑ってね」とか 「じゃあ、次は3人くっついて、この格好でね」とか、次々にポーズを要求する。 撮り終えると、今度はコードの付いた電気ペンみたいなもので、次から次へと画面に当てて、いろいろな 模様や、メッセージを入れていく。「お父さん、お母さん愛してるよ!」「私は稲垣の娘だよ」とか タイ語でなにやら、訳の分からないぐにゃぐにゃした文字を書いたり、なんと手早い事。 「出来たよ、後はプリントして出てくるのを待つだけよ」とパッチャン。 すると、横の法から、ジッツジッツと音がし、パッチャンが指示したような、写真が出来上がり出てくる。 このプリクラは、普通の人はより美しく、それなりの人もまあまあ満足な写真写りで出来上がるのが 不思議である。これで、プリクラも撮った。パッチャンの願いは全部とまでは行かなかったが、叶えられた。 それでも、「私間もなくタイに帰るよ、どうするん!!」を繰り返し、寂しそうなパッチャンである。 さんざんパっちゃんに引っ張りまわされた一日だったが、タイ料理も美味しく、母の見舞いにも行けたし、それなりに 充実の一日だった。 帰宅し、ストーブの前で丸くなっていると、キンコン!と来客。 トを開けると、近くの小学校の体育館で一緒にバトミントンをやっているお姉ちゃんがパっちゃんを誘いに来られた。 あ!そうだ。今日はバドミントンの日だった!!! 全く忘れていたパっちゃんは、「ごめんなさい、あとから行きます」と言い、先に行ってもらったようだ。 寒いし、身支度も出来ていないパっちゃんは、ぐずぐずと行きたくなさそうだ。 今から行ってももうペアを組んでやっておられるので、じゃーお別れの挨拶だけしてきなさい」と言い体育館まで 車を走らせる。 主人が、「お前も行って挨拶して来い」と言う。先に行ったパっちゃんを追いかけて体育館の中に入ると バトミントンの主将の長谷川さんや、一緒にプレーした仲間の方達がパっちゃんを囲んで歓談しておられた。 お世話になったお礼を言い、皆さん一緒の記念写真を撮らせてもらう。 パっちゃんはここでも人気で、皆さんとも楽しくプレーしたようだったが、パっちゃんの悪い癖で、ちょっとかじっては もう飽きてしまう。寒いと言っては休み、眠いと言っては休んでいたのであまり良い生徒ではなかったと思うが そこは人たらしのパっちゃん。皆さんにしっかり可愛がられたようで、楽しかったね!!と口々に言ってもらっていた。 ほんとに皆さんありがとうございました。 |
1月 31日(火曜日)近所の家で夕食 パッちゃんはホアンのように”人たらし”だ。笑顔は可愛く、人をすぐに自分の中に取り込んでしまう。 近所の方にもとても可愛がってもらい、お正月には着物姿を披露して、お年玉も頂いた得なパッちゃんである。 近所に息子さんが、仕事でタイに行っておられるお家がある。今はおじいちゃんとおばあちゃんの二人暮しだが 「パッちゃん、パッちゃん」ととても可愛がって下さり、お年玉も頂き、2、3日前には、お餞別まで頂いた。 何かの形で、恩返しがしたい。 そこで主人が提案。「何かタイ料理を作って持っていって一緒に食べて来い。」と言う。 パッちゃんもおばあちゃん大好きなので、「いいよ、でもトムヤムクンはおかあさんが作ってね」だそうだ。 朝、出がけに、おばあちゃんのお家に伺ってその事を話すと、「えッ!いいよ、いいよ、 年寄りの食べる物合わないし・・・・」と言われて遠慮されていた。 「タイ料理お口にあうかどうかわかりませんが、パッちゃん何か作って来ますから、一緒に食べましょう」と 何度もお願いすると、うれしそうな顔をされ、「じゃー今晩待ってますよ。何時でもうちはいいからね」と言って下さった。 夕方早めに帰り、私!が、トムヤムクンを作る。 そしてタイレストランで食べた、魚のすり身のフライが美味しかったので似たものを作ってみた。 そうこうしていると、近くの団地に住む、いっちゃんのお母さん玲子さんが、お別れに子供を連れて来られる。 パッちゃんは子供大好きなので、いっちゃんも、”パッちゃん!パッちゃん!”とよくなついてプリクラにも行った。 キッチンで料理していると、おばあちゃんが待ちかねてか、呼びに来られ、「いつでもおいで!」と言われる。 トムヤムクンも出来たので、お盆に料理を乗せパッちゃんを連れて行くと、机の上には、お寿司を注文されたようで、 お皿やお湯のみが並べられ、いつでも食べられるように準備が整っていた。 「稲垣さんも一緒に食べましょうよ!」と誘われたが、私が居たのでは意味ないので、「今お客さんがありますから」と 無理矢理パッちゃんを置いて失礼した。 パッちゃんは全然いやがりもせず、おばあちゃんのお家に入って行った。 我が家に来ていたいっちゃんのお母さんも主人が待ってますから・・と帰っていった。 帰宅した主人と夕食を食べてのんびりしていると、パッちゃんがニコニコとして帰ってきた。 「あ〜ぁ、楽しかった。いっぱい話しをしたよ」ととてもうれしそう。 「おばあちゃんね、原爆でおかさん亡くなっちゃんだって。で自分も原爆に会って、やけどもして 辛い目いっぱいいっぱいで、原爆のこと誰にも言わずに暮らしとったんだって」と。 この方はとても早口でしゃべられる人だが・・・「パッちゃん、どの位理解出来た?」と聞くと、 「そうね、ほとんど分かったよ。それがうれしい!」とうれしそうに笑みを浮かべた。 帰りには、おばあちゃんの作られた、革細工や手編みの食器洗いや、携帯に付ける小物や御菓子など 手にいっぱい抱えて帰ってきた。 すぐ近所なのにわざわざパッちゃんを送って来て下さり、「来てくれてとてもうれしかったよ」と喜んで下さった。 |